江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

狩野墨川ら幕末の神田松永町狩野家の絵師

狩野墨川「梅図」金沢市龍淵寺蔵

江戸の表絵師の画系である神田松永町狩野家は、始祖の狩野友益が五代藩主・前田綱紀に取り立てられて以来、その長男の伯円をはじめ、幕末に墨川の跡目を継いだ宗益まで、加賀藩と深い関わりを持ち続けた。

狩野墨川(不明-不明)は、生没年不明だが、活躍期は江戸時代後期から末期で、金沢城の二ノ丸御殿に関する『御造営方日並記』によると、文化6年(1809)に父の友益とともに加賀に下り、障壁画制作に当たったとされている。しかし『古畫備考』によると、幕府から扶持を受けたが絵の御用はなく、天保9年(1838)以前に加賀に数度下り仕事をしたとされ、即誉の子孫に当たるとされているなど資料により出自が異なり、不明な点が多い。

墨川の跡目を継ぎ、神田松永町狩野家最後の絵師となった狩野宗益(1786-1870)は、江戸で江戸城西ノ丸新営御殿の障壁画制作など公儀の仕事に携わっていたが、幕末に加賀藩を訪れ、多くの作品を残し、金沢で没した。また、墨川に画を学んだとされる金沢の福島秀川(1804-1880)は、墨川が金沢を訪れた文化6年はまだ6歳だったことと、景貞と号していることから宗益からも学んだ可能性があるとされている。

狩野墨川(不明-不明)かのう・ぼくせん
神田松永町狩野家の絵師。狩野友益の子とされるが、友益の子である狩野即誉の子孫とする記述もある。

狩野宗益(1786-1870)かのう・そうえき
天明6年生まれ。神田松永町狩野家最後の絵師。名は景信。別号に真流斎がある。墨川の跡目を継いだ。墨川の子ともされるが『加能画人集成』では高田圓洲の子となっている。弘化元年狩野晴川院らと江戸城西ノ丸新営御殿の障壁画制作に携わり、嘉永5年にも再び西ノ丸の「鴈の間」を担当した。晩年金沢に下り多くの作品を残した。代表作に金沢市立中村記念美術館所蔵「大江山図」がある。明治3年、85歳で死去した。

福島秀川(1804-1880)ふくしま・しゅうせん
文化元年金沢生まれ。本名は白木屋清太郎。のちに福島と姓を改めた。画を狩野墨川に学び、景貞と号した。代表作に当時の金沢城下犀川口周辺の様子を描いた「金沢城下図屏風-犀川口松図-」がある。明治13年、77歳で死去した。

石川(14)-画人伝・INDEX

文献:金沢市史通史編2(近世)、金沢市史資料編16(美術工芸)、新加能画人集成