大正末期から昭和にかけて、それまで低湿地帯だった池袋は急速に発展し、新興都市へと大きく姿を変えていった。街にはミルクホールやバーが次々と生まれ、酔客で賑わう繁華街が生まれた。そうしたなか、まだ地価の安かった池袋近辺には、画学生を対象としたアトリエ付きの安借家が出現し、それが数を増し、やがてアトリエ村と呼ばれるいくつかの集落が形成されていった。
そこには、若い芸術家や詩人たちが集まり、独特の文化圏が生み出されていた。芸術家たちは、夜になるとミルクホールの女給たちを目当てに、池袋の中心街へと繰り出し、芸術論をたたかわせながら、恋に若い魂を燃やした。北海道から上京してこの街の住人となっていた詩人の小熊秀雄もその一人だった。小熊は、この街をパリのモンパルナスになぞらえ「池袋モンパルナス」と命名し、そこに住む若者たちの様子を「池袋風景」(下記)と題する詩に表現した。
池袋モンパルナスに夜が来た
学生、無頼漢、芸術家が
街にでてくる
彼女のために
神経をつかへ
あまり、太くもなく
細くもない
在り合せの神経を――
小樽に生まれた小熊秀雄(1901-1940)は、父の内縁の妻の私生児として入籍され、複雑な家庭環境のもと、高等小学校以上は進学せず、子どものころから、いか釣り漁師の手伝い、養鶏場番人、昆布拾い、製紙パルプ工場職工などの雑役をし、ほとんど独立した生活をしていた。21歳の時に姉の世話で旭川新聞社に見習記者として入社、文芸欄で童話や詩を発表するほか、さまざまな芸術活動に参加した。大正13年の旭川美術協会展に出品した「土と草とに憂鬱を感じたり」は、鮭の尾や新聞を貼り付けた前衛的な作品で、周囲を驚かせたという。
昭和3年、27歳の時に旭川新聞社を退社して上京、東京各地を転々としたのち、昭和4年から豊島区長崎町周辺に住みつき、プロレタリア詩人として活動するが、喘息発作に苦しみ、生活は困窮を極めていた。同地には同じような貧しい画家たちが多く住んでおり、小熊は、寺田政明ら多くの芸術家たちと交流した。美術批評も手掛け、三岸好太郎が没した際には、翌年の独立展の遺作陳列に評論を寄せ、「私は彼の絵は好きでない。才能が好きである」と、小熊らしい表現で2歳年下の故郷の新進画家の死を惜しんだ。
昭和9年ころからは再び絵筆をとるようになり、油彩や水彩画を描き、自身を含めた周辺の人物らを日記のように描いた素描なども制作した。戦争に向かい、規制により詩が自由に表現できなくなってきたことから、絵画は生活の糧となっていたと思われる。しかし、妻子を抱えた生活は相変わらず窮乏を極め、さらに結核も進行し、昭和15年の初冬、豊島区のアパートで死去した。
小熊秀雄(1901-1940)おぐま・ひでお
明治34年小樽生まれ。3歳の時に母を亡くし、稚内、のちに樺太に移住し主に肉体労働に従事した。大正11年、21歳の時に姉の世話で旭川新聞社の見習記者となり、以後文芸欄を担当し、童話、詩を発表、また前衛的な美術作品も手掛けた。2度の上京後、昭和3年に3度目の上京をし翌年から豊島区長崎町に住み、以後長崎町内を転々とした。プロレタリア詩人会に入り精力的に詩を発表するが、生活は困窮した。昭和9年ころから寺田政明ら画家の友人に刺激を受けて、油彩、デッサンを多く描いた。昭和10年に最初の詩集『小熊秀雄詩集』を発行、続いて長編叙事詩集『飛ぶ橇』を発行した。結核に冒されながらも、詩作、美術批評、絵画制作をしていたが、昭和15年、39歳で死去した。
北海道(30)-画人伝・INDEX
文献:北の夭折画家たち、小熊秀雄と画家たちの青春、小熊秀雄と池袋モンパルナス