江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

「何か醗酵している美しさ」と評された山本菊造

山本菊造「敏子の像B」

昭和8年に三岸好太郎を中心に結成され、同年第1回展が開催された「北海道独立美術作家協会」だが、同会結成時にはすでに没していた二人の画家の作品も展示された。三岸をして「彼によって北海道にフォーヴィスムの運動が移植され始めたと言っても過言ではない」と言わしめた札幌の山本菊造と、独立展連続入選を経て「彩人社」を結成、函館画壇を挑発するような前衛的な主張を繰り返していた函館の桐田頼三である。

札幌生まれの山本菊造(1900-1932)は、さまざまな美術グループに属し、初期の画風は穏健な写実だったが、1920年代には激しいフォーヴ傾向の作品を描くようになり、北海道画壇で先進的な美術活動を行なっていた。北海道の独立展出品者の多くが上京画家だったのに対し、山本は札幌に住み、春陽会展、二科展、1930年協会展などの中央画壇に出品していた。昭和7年、第2回独立展に初入選した作品が「何か醗酵している美しさ」との評を得て注目され、将来を期待されたが、同年、32歳で病没した。絶筆のひとつとなった「敏子の像B」(掲載作品)は、美人で評判だった画家の阿部敏子をモデルにしたもので、第3回独立展に遺作として展示された。

第1回独立展にフォーヴ調の作品で入選を果たした桐田頼三(1910-1933)は、翌年の独立展連続入選を経て、函館に美術グループ「彩人社」を結成した。積極的に新しい傾向の絵画を研究し、展覧会を開催するとともに、従来の函館画壇を挑発するような前衛的な主張を新聞などで展開し、議論を巻き起こしていた。函館の美術家を結集させた「函館美術協会」の再興に尽力していたが、23歳で病没。同会の再興は桐田の死の6ケ月後に実現した。

山本菊造(1900-1932)やまもと・きくぞう
明治33年札幌生まれ。本名は菊太郎。家業は雑貨商だった。10歳ころから絵筆に親しみ始め、北海中学では美術部・どんぐり会に所属。エルム画会、十二年社、黒土社などさまざまな美術グループの同人となり、大正14年の北海道美術協会(道展)創立に参加、道展発展期の中心メンバーとして活躍した。小樽の太地社の同人でもあり、第2回展から最終回の第6回展まで出品した。昭和3年第6回春陽会展に初入選、ほかに二科展、1930年協会展にも出品した。昭和7年第2回独立展に「室内」「裁縫婦」が入選して注目を集めるが、その年の5月に腎臓の病のため、32歳で死去した。

桐田頼三(1910-1933)きりた・らいぞう
明治43年函館生まれ。函館中学を4年で中退して上京。日本画を学ぶ一方、前田寛治に私淑し、3年間東京で絵の勉強をした。昭和5年第一美術協会展に初入選。昭和6年に第1回独立展に初入選、翌年の第2回展も入選した。函館で彩人社を結成し、前衛的美術運動を意識した活動を行なった。昭和8年、23歳で死去した。

北海道(29)-画人伝・INDEX

文献:北の夭折画家たち、北海道美術あらかると、1930年代の青春、北海道美術史