美術文化協会の設立に参加し、昭和10年代の前衛運動を担った靉光(1907-1946)は、戦時下に体制に順応していった美術文化協会を離れ、新しい活動の場として新人画会を結成したが、翌年には召集を受け、終戦後、上海で死去した。靉光とともに広島の印刷所で働いていた野村守夫(1904-1979)は、戦後の二科会の中心人物として活躍、灰谷正夫(1907-1990)は昭和10年帰郷し、山路商(1903-1944)らと広島フォルム美術協会を結成した。広島における前衛美術運動の指導者だった山路は、治安維持法で長期拘束され、終戦の前年に死去、昭和20年広島を襲った原爆では岩岡貞美(1913-1945)が死去した。戦後になると、坊一雄(1890-1948)、宇根元警(1904-1970)らが帰郷、片山公一(1910-1969)、北川実(1908-1957)も復員した。北川は府中造形美術協会を立ち上げ、靉光とともに美術文化協会の創立に参加した柿手春三(1909-1993)は、野村守夫らとともに広島美術家連盟を結成、復興を目指す活動は各地で進んだ。
靉光(1907-1946)
明治40年山県郡壬生町生まれ。本名は石村日郎。野村守夫、灰谷正夫と同じ印刷所で働いた。はじめ大阪に出て天彩画塾で学び、このころから靉川光郎、靉光と名乗るようになった。大正13年東京に出て、太平洋画会研究所で学び、二科展や1930年協会展などに出品した。研究所では松本竣介や麻生三郎との交友が始まった。昭和13年独立展で独立賞受賞。戦局の進展にともない、創立に参加した美術文化協会が体制に順応していったため、昭和18年、新しい活動の場として新人画会を結成したが、翌年には召集を受け、終戦後の昭和21年、上海兵站病院において38歳で死去した。
野村守夫(1904-1979)
明治37年広島市生まれ。靉光、灰谷正夫と同じ印刷所で働いていたが、大正末期になると三人は相前後して上京し、野村は川端画学校で藤島武二に学んだ。昭和2年二科展に初入選、以後も同展で活動、常任理事をつとめた。昭和48年日本芸術院賞恩賜賞を受賞。昭和54年、75歳で死去した。
灰谷正夫(1907-1985)
明治40年高田郡吉田町生まれ。靉光、灰谷正夫とともに勤務していた広島市内の印刷所では、図案工、石版工として働きなから画家を目指し、大正15年に上京した。昭和4年1930年協会展に初入選、昭和6年二科展に初入選、昭和10年に帰郷した。戦後は自由美術展や二科展を中心に発表した。昭和60年、79歳で死去した。
山路商(1903-1944)
明治36年新潟県長岡市生まれ。大正9年広島市に移住。昭和4年二科展に初入選。翌年、写実派洋画連盟を結成。昭和7年広島洋画協会の結成に参加。昭和13年には灰谷正夫らと広島フォルム美術協会を結成し、広島の前衛美術家の主導者として活躍した。昭和19年に特高に検挙。同年、42歳で死去した。
柿手春三(1909-1993)
明治42年双三郡三良坂町生まれ。昭和3年に上京し太平洋画会研究所に学び、その後川端画学校に入った。池袋のアトリエに住み、靉光、井上長三郎、鶴岡政男、寺田政明らと交友した。昭和14年の美術文化協会の創立に参加したが、翌年身体を壊し帰郷した。以後は広島県内で教鞭をとった。昭和30年、広島平和美術展の創立に参加。戦争や核問題、環境問題などをテーマに描いた。平成5年、84歳で死去した。
国盛義篤(1897-1951)
明治30年山県郡千代田町生まれ。大正12年京都絵画専門学校を卒業。まもなく洋画に転向した。大正13年春陽会展に初入選、昭和9年に会員に推挙され以後も同展で活動した。昭和26年、54歳で死去した。
小早川篤四郎(1893-1959)
明治26年広島市生まれ。幼いころに台湾に移住し明治末期に帰国した。大正初期に上京、本郷絵画研究所に入り、岡田三郎助に師事した。大正14年帝展に初入選、以後も同展に出品した。昭和8年第1回東光展に出品、以後同展にも出品した。戦中は従軍画家として上海などをまわった。昭和34年、66歳で死去した。
小林和作(1888-1974)
明治21年山口県倉敷郡生まれ。大正2年京都市立絵画専門学校を卒業。大正期に洋画に転向するため上京、梅原龍三郎、中川一政、林武らに師事した。大正13年春陽会展に出品するが、昭和9年同会を退会して、独立美術協会会員となった。同年尾道に移住、終生中央を離れ尾道で暮らし、自ら民衆画家と称した。昭和28年芸術選奨文部大臣賞を受賞した。昭和49年、86歳で死去した。
小林徳三郎(1884-1949)
明治17年福山市生まれ。幼いころに上京し、明治42年東京美術学校を卒業。大正元年ヒュウザン会の創立に参加。大正12年第1回春陽会展に出品し、大正15年会員に推挙され以後も同展で活動した。昭和20年、箱根・強羅に疎開、昭和24年に帰京したが、同年、66歳で死去した。
岩岡貞美(1913-1945)
大正2年広島市生まれ。昭和10年独立展に初入選、以後も独立展に出品した。将来を嘱望されたが、昭和20年被爆し、33歳で死去した。
池田快造(1911-1944)
明治44年三原市生まれ。昭和6年上京し、東京美術学校に入学、藤島武二の指導を受け、在学中から光風会展に出品した。昭和15年病気療養のため帰郷して制作活動を行なっていたが、昭和19年、33歳で死去した。
坊一雄(1890-1948)
明治23年三原市生まれ。大正6年東京美術学校卒業。昭和2年渡仏し、サロン・ドートンヌなどに出品、昭和3年にはフランスから作品を送り帝展に入選した。昭和5年に帰国、大阪を拠点に活動した。昭和23年、59歳で死去した。
宇根元警(1904-1970)
明治37年呉市生まれ。昭和初期に上京し清水登之に師事、靉光、野村守夫らと交友した。昭和15年に独立展で独立賞を受賞、昭和23年に会員に推挙され、以後も同展に出品しながら呉や広島で活動した。昭和45年、66歳で死去した。
北川実(1908-1957)
明治41年広島県府中市生まれ。大正末期に上京。靉光や鶴岡政男らと交友し、野間仁根に師事した。昭和11年二科展に初入選、以後も同展で活動した。昭和20年帰郷し、府中造形美術協会を結成。昭和27年頃に広島を離れ、昭和32年、50歳で死去した。
片山公一(1910-1969)
明治43年福山市生まれ。昭和6年第1回独立展に出品、翌年上京、中山巍、小林和作、田中佐一郎に師事した。昭和23年独立賞を受賞し、昭和26年に会員に推挙され、その後も独立展で活動した。昭和44年、57歳で死去した。
福井芳郎(1912-1974)
明治45年広島市生まれ。昭和3年帝展に初入選。昭和6年に大阪美術学校を卒業して帰郷、広島洋画研究所を開設した。昭和7年広島洋画協会の結成に参加。昭和11年広島の洋画グループ二紀会の結成に参加。戦後は「ヒロシマの怒り」「黒い雨」など原爆記録画を制作した。昭和32年新協美術会の創立に参加。昭和49年、62歳で死去した。
広島(16)-画人伝・INDEX
文献:近代洋画・中四国の画家たち展、広島洋画の粋