金井烏洲(1796-1857)は、佐位郡島村(現在の伊勢崎市境島村)の豪農の家に生まれた。父・萬戸は俳諧を嗜み、兄・莎邨も経史詩文に親しむという家庭環境のなか、幼いころから学問を身に付け、たびたび金井家に来遊していた南画家・春木南湖に絵の手ほどきを受けた。
本格的に作画修業に入るのは、21歳の時に江戸に出て改めて南湖に入門した時からと考えられる。父と交流のあった谷文晁の「写山楼」にも出入りし、渡辺崋山や高久靄厓の影響も受けながら、自らの画風を完成させていったと思われる。
江戸では多賀谷向陵のもとに寄宿していた兄とともに長崎に遊ぶなどしていたが、31歳で兄が病没すると、故郷に戻って家業を継いだ。江戸で名を成しつつあった烏洲のもとには、高野長英、菅井梅関ら多くの文人墨客が相次いで訪問したという。
文政3年には関西に遊び、京都の頼山陽や大坂の篠崎小竹を訪ねるなど積極的に文人との交流を図り、からわら画論書「無声詩話」を刊行して深い薀蓄を披露するなど、上州南画界の第一人者として活躍した。晩年は、父が建てた「呑山楼」で書画三昧の生活を送った。
金井烏洲(1796-1857)かない・うじゅう
寛政8年佐位郡島村(現在の伊勢崎市境島村)生まれ。豪農・金井彦兵衛萬戸の二男。本名は時敏、泰。字は林学、通称は左仲太、のちに彦兵衛。別号に小禅道人、白沙邨翁、獅子吼道人、朽木翁、墨農などがある。幼いころから、父の友でたびたび来遊していた春木南湖に絵の手ほどきを受けた。文化13年、21歳の時に江戸に出て経史を朝川善庵に、詩を菊池五山に、文を古賀侗庵に学んだ。また、絵は郷土鬼石の緑野道人(出三照芳)に学び、のち春木南湖、谷文晁にも教えを受けた。天保3年には関西に遊び、伊勢、諸皇陵を拝し、京坂の文人・頼山陽、梁川星巌、小石元瑞、篠崎小竹、後藤松陰らと交わった。また、その道中には奈良の月ケ瀬を探索し「月ケ瀬図巻」を制作した。さらに長崎に足をのばそうとしたが、途中父の危篤の報に接して帰省した。以後、居を「呑山楼」と名づけ、菅井梅関、大窪詩佛、田崎草雲といった文人との交際のなかに日々を送った。嘉永6年、日光に滞在中、画論書「無声詩話」を著した。安政4年、62歳で死去した。
金井研香(1806-1879)かない・けんこう
文化3年佐波郡島村生まれ。金井烏洲の末弟。名は寿、字は寿平。別号に無溟、研香、毛山などがある。家号には、與木石居、神農台などがある。江戸に出て、詩文を古賀侗庵に、絵を谷文晁、春木南湖、大岡雲峰に学んだ。兄・烏洲の影響を強く受け、豪放な墨色の山水画を多数残している。「境町糸市図」などの作品がある。明治12年、74歳で死去した。
群馬(8)-画人伝・INDEX
文献:群馬の絵画一世紀-江戸から昭和まで、群馬の近代美術、上毛南画史、群馬県人名大事典