江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

タイガー立石と筑豊の画家

タイガー立石「アラモのスフィンクス」

炭鉱で栄えた筑豊地区は、戦中戦後の混乱期に石炭増産に沸き、中央から映画や芝居、漫画といった多くの大衆文化が流入してきた。戦後前衛美術の旗手の一人として活躍したタイガー立石(1941-1998)は、田川に生まれ、その特異な活気の中で多くのものを吸収し、作家としての素養を形成していった。上京後は「観光」を作品のキーワードとし、多摩川河原での観光芸術展や、東京駅での路上歩行展などを行なった。いかに観る者に喜びや驚きを与えるか、そのための仕掛けを生涯を通じて生み出し続けた。田川に生まれた石井利秋(1911-2001)は、郷里で炭鉱労働のかたわら制作を続け、当初は炭鉱をモチーフにした抽象的な作品を描いていたが、炭鉱を後世に伝えるという使命感に目覚め、昭和46年から女坑夫の姿や炭鉱災害の場面を具象で描くようになった。飯塚に生まれた立花重雄(1920-1995)は、ボタ山や炭鉱住宅などの風景をテーマに、黒く重厚な絵肌による炭鉱シリーズを発表、「ボタ山画家」と称され一躍名を高めた。飯塚で教員生活を続けた築山節生(1906-1986)と、直方で教員のかたわら自宅に画塾を開いた阿部平臣(1920-2006)は、ともに多くの後進を育て、筑豊の画家たちに大きな影響を与えた。また、筑豊からは織田廣喜、野見山暁治という著名画家も出ている。

タイガー立石(1941-1998)たいがー・たていし
昭和16年田川郡伊田町生まれ。本名は立石紘一。のちに立石大河亞と改名。昭和36年武蔵野美術短期大学芸能デザイン科に入学、卒業した昭和38年、読売アンデパンダン展でデビューした。翌39年には中村宏と「観光芸術研究所」を設立し、多摩川河原での観光芸術展や、東京駅での路上歩行展などを行なった。昭和40年からサイレント漫画を描き始め、昭和44年にイタリアへ渡ったあと、ストーリー性や時間的要素を取り入れたコマ割り絵画を展開。イタリアではイラストやデザインも手掛け、昭和57年に帰国した。油彩、シルクスクリーン、鉛筆、陶による作品に加え、漫画や絵本の制作など、多彩な分野で活動を行い、「観る」という行為から生じるコミュニケーションを促すための仕掛けを生み出した。平成10年、56歳で死去した。

石井利秋(1911-2001)いしい・としあき
明治44年田川郡伊田町生まれ。三井尋常小学校卒業後、大正14年から約2年間、三井田川鉱業所で坑内雑夫として働いた。その後、画家を志して上京、昭和7年に日本美術学校洋画部に入学した。在学中および卒業後も大久保作次郎に師事した。昭和11年帰郷して再び三井田川に勤務した。以後は田川を離れることなく、炭鉱労働のかたわら制作を続けた。昭和12年、日本美術学校の先輩である田川在住の横山群らと、田川で初めての絵画グループ「彩人社」を結成。昭和21年、三井田川洋画同好会の結成に参加した。同会で、福岡学芸大学田川分校で教鞭をとっていた築山節生を招き、指導を受けた。31年モダンアート展に初入選、以後も出品を続け、昭和42年、会友となり福岡支部長。昭和44年に会員となった。この頃までは炭鉱をモチーフに抽象的な作品を描いていたが、炭鉱を後世に伝えるという使命感に目覚め、昭和46年から、女坑夫の姿や炭鉱災害の場面を具象で描くようになった。平成13年、90歳で死去した。

立花重雄(1920-1995)たちばな・しげお
大正9年福岡県飯塚市生まれ。少年時代から絵を好んだが、召集のため本格的に学ぶことはなかった。復員後、飯塚市で旅館や料理店を営むうち、絵への思いが再燃し、昭和30年に上京、同郷の田崎廣助に師事するとともに、中央美術学園に学んだ。昭和32年に卒業して帰郷、帰途に汽車から眺めた、見慣れたはずの郷里の炭鉱風景に衝撃を受け、ボタ山や炭鉱住宅などの風景をテーマに黒く重厚な絵肌による炭鉱シリーズを発表、折りしも筑豊から炭鉱が姿を消しつつある時期で、立花は「ボタ山画家」と称され、一躍名を知られるようになった。昭和39年日展で特選、昭和62年日展会員となった。昭和42年に初めて欧州を訪れ、スペインの街並みに炭鉱町に似た感覚を受け、以後は赤や黄の原色の太陽の下、哀愁を帯びた街並みを描いた。平成7年、75歳で死去した。

築山節生(1906-1986)つきやま・せつお
明治39年佐賀県唐津市生まれ。のちに釜山に移った。小学校を卒業後、北九州、大阪、東京など、職を変えながら渡り歩き、18歳頃に画家を志すようになった。大正14年朝鮮で小学校教員試験に合格、さらに苦学して昭和8年文部省施行の西洋画・用器画教員試験に合格した。翌9年から幾つかの師範学校で教鞭をとってのち、昭和22年福岡第二師範学校に赴任した。本校および分校で指導するにあたり、中間地点である飯塚に居を構え、同校が福岡学芸大学、福岡教育大学と名称変更するなか、昭和45年まで勤務した。27歳頃から宮本三郎に私淑し、二紀展に出品、昭和32年二紀会委員となった。昭和61年、79歳で死去した。

阿部平臣(1920-2006)あべ・ひらおみ
大正9年鞍手郡直方町生まれ。昭和14年東京美術学校油画科予科に入学、翌年本科に進んだが、昭和18年に戦時による繰上げ卒業となり帰郷した。田川中学校に就職した後、戦後は直方の中学校を転勤しながら教師生活を続けた。昭和25年から自由美術家協会展、昭和27年から春陽会展に出品していたが、その後は行動美術展に出品し、昭和37年行動美術協会会員となった。教師生活のかたわら、自宅に画塾を開いて多くの後進を育て、筑豊の画家たちに大きな影響を与えた。平成18年、85歳で死去した。

福岡(23)-画人伝・INDEX

文献:多彩な美 田川市美術館の歩み、福岡県の近代絵画展福岡県西洋画 近代画人名鑑福岡県が生んだ画家たち展