江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

福岡南画壇の育ての親と称される中西耕石

中西耕石「山水図」

福岡県の近代南画の先駆者としては、福岡南画壇の生みの親とも育ての親とも称される中西耕石(1807-1884)が挙げられる。耕石は、遠賀川河口の貿易港として江戸時代に栄えた芦屋に生まれ、京都で松村景文に師事し、のちに日根対山と南宗画の双璧と謳われた。多くの門人を育て、そのなかには大宰府南画の継承者・吉嗣拝山(1846-1915)や冨田溪仙の師である上田鉄耕らがいる。

中西耕石(1807-1884)なかにし・こうせき
文化4年遠賀郡芦屋中小路生まれ。本名は寿、幼名は寿平、字は亀年。別号に筌岡、竹叟などがある。家業は紺屋。早くから京都に出て四条派の松村景文に学び、また小田海僊について南画を学び、漢字などを篠崎小竹に修めて、山水画で名声を得た。日根対山と南宗画の双璧と称された。筑前藩と津藩から年々禄米を受け、幕末頃から清水寺門前に住んでいた。明治6年第2回京都博覧会の余興の書画会に呼ばれて席上揮毫。明治15年京都府画学校出任を命じられ教職についた。同年東京の第1回内国絵画共進会で銅賞と画学校設立に尽力した功績で絵事労褒状を受けた。門人に吉嗣拝山、上田鉄耕、衣笠豪谷らがいる。明治17年、78歳で死去した。

木村耕巌(1830-1911)きむら・こうがん
天保元年備後鞆津生まれ。嘉永5年京都に出て前田暢堂に花鳥画を、中西耕石に山水画を学んだ。また、梁川星巌に詩を学び、頼暢崖らと交わった。一時耕石の養子になった。十数年にわたりしばしば大覚寺に参禅。その後8年間ほど江戸に住み、のちに筑前若松に移り住んだ。門人に新谷鉄僊、松岡呉藍らがいる。明治44年、82歳で死去した。

守田桂窓(1823-1894)もりた・けいそう
文政6年生まれ。本名は孫兵衛。伊万里焼商人で中西耕石に南画を学んだ。養子に洞山がいる。明治27年、72歳で死去した。

平兮憩堂(1849-1930)ひらな・けいどう
嘉永2年御笠郡観世音寺村生まれ。観世音寺・石田淋應の長男。本名も憩堂。別号に禅磨、薄雲がある。安政6年、11歳の時に本寺で得度した。儒仏および画道を長野和平に学んだ。明治元年から西京東福寺で修学し、そのかたわら同郷の中西耕石に南画を学んだ。明治4年帰郷し、石田姓を平兮に改姓。同年夜須郡甘木村甘木山安長寺の第15世住職となった。その後各地を遊歴し、諸名家を訪ね画道を研鑽した。明治17年第回内国絵画共進会に出品。昭和5年、82歳で死去した。

伊藤西瀛(1850-不明)いとう・せいえい
嘉永3年福岡県生まれ。別豪に晴影などがある。幼いころに瀧田華山に学び、のちに京都に出て中西耕石の門に入り半年後に帰郷し、のちに全国を漫遊した。山水は沈石田などを慕い、花卉は王若水を慕い研究した。のちに松本楓湖に従い、本朝歴代の人物を研究し、南北両派の画を描いた。昭和3年頃は、鞍手郡直方古町に住んでいた。

福岡(11)-画人伝・INDEX

文献:日本画 その伝統と近代の息吹き福岡県日本画 古今画人名鑑