江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

八戸に俳画を広めた浮世絵師・魚屋北渓

魚屋北渓「諸国名所(駿州大宮口登山)」

八戸藩七代藩主・南部信房は、風雅を愛し、俳人としてもよく知られた。信房の周辺には狩野派の絵師や浮世絵師が出入りしていたが、八戸藩の家臣の家禄をまとめた「身帯帳」には「御絵師」の肩書のある人名が見当たらないことから、彼らは絵師として召し抱えられたのではなく、「客分」として江戸藩邸や八戸城下に滞在していたと考えられている。

浮世絵師の魚屋北渓も信房に引き立てられた絵師のひとりだった。北渓は八戸に俳画を広めたといわれ、御手本も八戸に相当数残っており、摺物、俳句の春興摺も多い。八戸の俳諧風雅帳の絵も北渓が描いたと伝わっている。

北渓は、葛飾北斎の門人で、師の作風を受け継ぎ、狂歌摺物、狂歌本を得意とした。江戸四谷鮫ケ橋近辺で魚屋を営んでいたことから、魚屋北渓と呼ばれた。作品としては主に摺物が残っており、大森、六郷、蒲田などを描いた風景や、「金太郎鯉つかみ」などの金太郎もの、朱鐘馗、月宮殿など、その題材はさまざまである。『北里十二時』などの狂歌本の挿絵も描いている。

一枚摺りの「諸国名所」シリーズは北渓の代表作とされ、全部で15図が知られている。掲載の「駿州大宮口登山」は、頂上をめざす白装束の行者たちが、あちらこちらから山壁をよじ登っている様を描いている。当時の富士登山は、宗教的な意味合いが強かったため、登山者は白装束の行者として描かれている。

魚屋北渓(1780-1850)ととや・ほっけい
安永9年生まれ。姓は岩窪、名は辰行、字は拱斎。葵岡、呉北渓などと号した。はじめ狩野養川院惟信に師事し、のちに葛飾北斎の門人となった。師の作風を受け継ぎ、狂歌摺物、狂歌本を得意とした。江戸四谷鮫ケ橋の松平家御用魚屋の家に生まれ、魚屋を営んでいたことから、魚屋北渓と呼ばれた。また、赤坂桐畑に移ってからは、家業の魚屋をやめ、画業に専念したとされる。代表作に「諸国名所」シリーズなどがある。嘉永3年、71歳で死去した。

参考:UAG美人画研究室(魚屋北渓)

青森(14)-画人伝・INDEX

文献:浮世絵大系8北斎、青森県史 文化財編 美術工芸、青森県南部書画人名典