湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。

68.レトロな街

第一話:OK横丁

土曜日は珍しく赤羽で飲んでいました。ボクの好みから言うと、赤羽といえばなんといってもOK横丁なわけで、あの短い通りにぎっしりと一杯飲み屋が並んでいる様は圧巻としか言いようがありません。最近ではこのレトロな通りも若者が増え、ハイカラな雰囲気さえ漂う明るい街になってきていて、さすがターミナル駅・赤羽だと関心するばかりです。

その日入った店は、カウンターで炭火を燃やしていて、その前で汗だくになって飲んでいたせいか、珍しく泥酔はせず、はしご酒なんて考えもしないで、極めて冷静なまま帰りの電車に乗り込みました。

駅に着いたのがもう12時近かったので、電車は空席が目立っていて、この状態で立っているのも居心地が悪いと思い、珍しく座ることにしました。

座席に座ると、目の前の窓から外の景色が見えました。思えばいつも地下鉄に乗っているし、座席に座ることもないので、こんな風に夜とはいえ電車の外の景色を見ることは久しぶりで、なんだか旅人になったような気分でした。

しばらく旅人の風情を楽しんでいると、さっきまで飲んでいたOK横丁という斬新なネーミングが急に気になりだしました。

どうしてOK横丁なのか。ボクは思わず、「また、OK横丁に来てくれるかな?!」、「OKっ!」というレトロなやり取りを思い浮かべ、つい一人ニヤついていると、それが電車の窓ガラスに写っていたので、あわてて周りを見渡してみましたが、だれもそにに気づいている人はいないかったようで、安心してまた窓の外を眺めました。

電車の外では夜の住宅街の景色がビュンビュンと流れていっていました。

第二話:頭脳明晰っ、動体視力も増して

その日はまったく酔っていないどころか、普段よりも頭がスッキリしていて、動体視力も格段に増しているようで、窓の外を飛んでいく夜の風景が手に取るように分かりました。

どうしてこんなに視野が広がり、おまけに整然と頭の中に入ってくるのか不思議に思いながら窓の外を眺めていると、だんだん電車はスピードを落とし、駅に止まりました。ここでかなりの人数が降り、車内はさらに空いてきました。

しばらくして電車が発車してから、隣の車両から車内を歩いてくる中年の女性が目に入りました。彼女は足早に歩いていましたがボクの前まで来ると足を止め、大げさに「あら」と声を上げると、「どうも」と言いながら丁寧にお辞儀をしました。

ボクは彼女が誰なのかさっぱり分かりませんでした。こんな場合、普段なら慌てるところですが、その日はいつになく頭脳明晰で、動体視力も増していたので、すぐに思い出すことができるだろうと確信し、彼女を見上げながら堂々と、「あ、どうも」と愛想良く、ちょっと右手を上げながら頭を下げました。

彼女はボクの隣に座ることなく、ちょっと離れた斜め向かいの席に座り、またボクの方を向くと「どうも」とお辞儀しました。

ボクはちょっと笑顔で答えてから、明晰な頭脳と優秀な動体視力を駆使して記憶を遡ることにしました。

赤羽はめったに来ることがないので、会ったとしたらその日の可能性が強く、その日見た風景を頭の中で巻き戻し、どんなささいな場面でも登場人物を見逃さず、隅々まで確認しました。しかしまったく彼女は出てきませんでした。しかたがないので、前日、前月、そして前年まで遡ったのですが、いっこうに彼女に出会うことはありませんでした。

ボクは困ってしまい、彼女の方をチラッと見てみました。彼女は待ってましたとばかりに「どうもっ」と、また愛想良くお辞儀したのでした。

第三話:ついに意を決して

どうしても彼女が誰なのか思い出せないまま、しばらく膠着状態が続きました。

しかし、よく考えてみればそんなに悩むことでもなく、彼女は離れた席に座っているのだし、そのうち駅に着けばどちらかが先に降りることになるでしょうから、その時に「どうも」って感じで軽く挨拶すれば済む話です。

ボクはもう彼女を思い出すのは諦めて、また窓の外に目を移しました。が、どうしても斜め前からの視線が気になって、ついチラッと見てしまい、それに合わせて彼女がお辞儀するというのを何度か繰り返しているうちに、ボクもさすがに考え込みました。

これだけあの女性が友好的な笑顔を見せているというのに、このまま放っておいてよいものなのでしょうか。どう考えても、それは善良な市民のすることではありません。

思えば、あの女性はボクの知り合いなのだろうし、これだけ目が合うということは何か話があるのかもしれません。それに、話しているうちに彼女が誰なのか分かることだってあるでしょう。

ボクは意を決して立ち上がり、走る電車の中でバランスを取りながら彼女の前まで行き、つり革につかまりながら「どうもっ」と軽く会釈すると、ごく普通の知り合いがやるように「隣の席いいですか」と礼儀正しく言いながら座ろうとしました。

ところが、どうでしょう。驚いたことに彼女は愛想よく笑いながらも不思議そうに、しかしキッパリとした口調で、「どうしてですか」と聞いてきたのです。

ボクは中腰になったまま固まってしまいました。

第四話:ある仮説

ボクは中腰のまま、目の前に座っている中年の女性の行動を振り返ってみました。

幸いにも、その日は頭脳明晰で動体視力も増していたので、さっきまでの車内での出来事が細かな部分まで思い出せました。

まずボクは座席に座りボンヤリと窓の外を眺めていました。しばらくして電車は駅に止まり、大勢の乗客が降りていきました。すると隣の車両からこの女性が歩いてきて、ボクを見て「あら」と声をあげ、丁寧にお辞儀をしました。それから少し離れた席に座って、ボクと目が合うたびに会釈を繰り返したのです。

ここまで振り返ってみて、ボクはハタと考え込みました。

彼女の行動はかなり友好的で、知り合いに対する態度のようにも思えますが、まったく別のとらえ方もできます。ボクは視点を変えてひとつの仮説を立ててみました。

その仮説とは、彼女はボクに興味があったのではなく、ボクが座っていた席に興味があったのではないかということです。そう考えれば、わざわざ彼女が隣の車両から移ってきたのも納得できます。

彼女は駅でかなりの乗客が降りたので、お気に入りの座席が空いたのではないかと思い隣の車両からやってきたのかもしれません。ところが、お目当ての席にボクが座っていたものだから、「あら」と残念がり、「できれば席を譲ってください」という意味を込めて丁寧にお辞儀をしたのでしょう。ところがボクがどかないものだから、ちょっと離れた席からボクを監視し、目が合うたびに「できれば譲ってください」と心の中でお願いしながら会釈をしていたのです。

いや、しかしもしそうだとするとか、ボクが勘違いして「隣の席いいですか」と言って彼女に近づいた時、彼女はここぞとばかりにボクがいた席に移るはずです。彼女が不思議そうに「どうしてですか」と聞いてきたということは、この仮説はどこか間違っているということです。

ボクは中腰のまま熟考に入りました。

最終話:袖振り合うも多生の縁

中腰のままどうしたことかと考えていると、電車はだんだんスピードを落とし、やがて駅に止まりました。その時のガクンという衝撃にボクは必死になって耐え、中腰のまま踏みとどまりました。ちょっとした達成感を感じながら、体勢を立て直してまた考え込もうとしていたところに、その女性はスッと立ち上がり、「御機嫌よう」と言いながら微笑むと、颯爽と降りていったのでした。

その後姿を見送りながら、ボクはこれでやっとすべてが解決したと思い、安心して席に座りました。が、またここでハタと考え込んでしまったのです。

もしかすると、彼女はボクが親しげに近づいたことで、変な男にからまれたと思い、目的ではない駅で途中下車したのかもしれません。いや、今までの流れからいってそうに違いありません。ということは、ボクは彼女に大変な迷惑をかけたことになります。

ボクは慌てて立ち上げると、彼女が出て行ったドアに駆け寄りホームに彼女の姿を探しました。といっても、彼女が出ていってからちょっと時間が経っていたし、電車も動き出そうとしていたので、半ばあきらめていたのですが、どうしたことか彼女はまだホームにいました。

その理由はすぐに分かりました。彼女はホームですれ違う人みんなに「あら」という顔をして、丁寧にお辞儀をしていたので、時間がかかっていたのです。その行動は一見すると奇妙にも思えましたが、挨拶されて最初は驚いていた人たちも、やがて穏やかな表情になり、彼女の周りは友好的な雰囲気に包まれていました。

思えば、これが本当の人付き合いなのかもしれません。ボクたちは、気の遠くなるような数の選択肢の中から偶然こうして出会っているのですから、むしろ挨拶するほうが当然なのかもしれません。まさに「袖振り合うも多生の縁」なのです。古きよき時代のエチケットを見たような気がしました。

ボクは遠ざかる彼女の姿を眺めながら、謎が解けた安堵感と、言い知れぬ清涼感がこみ上げてくるのを感じていました。

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