湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。

64.暑い日

第一話:4月のある暑い日

六本木に国立新美術館がオープンしたので最近は六本木に行く機会が増えて、先週の土曜日も美術館のそばの画廊のオープニングパーティーに行っていました。

画廊に入るといつものようにワインを手に入れてから入口のほうに戻り、風通しのいい場所を陣取って、ぼんやりワインを飲んでいました。人と話すのはワインのお代わりを注ぐ時くらいで、あとはずっと隅でグダグダしていたのですが、いつの間にかお開きの時間になってしまい、いつものように「どもども」とか言いながら画廊を後にしたわけです。

その日はものすごく暑くて、夜になってやっと涼しくなっていたので、せっかく六本木にいるのだから夜の裏通りでも探検しようと思い、脇道にそれブラブラと歩いていました。

と言っても、裏道にそれほどの発見もないし、面白いことも起きそうにないので、すっかり飽きてしまい、そろそろ駅に向かおうと思っていた時、後ろから「今日は暑かったですね」という女性の声がしました。

まさかボクに話しかけているとは思わなかったのですが、まだ4月だというのに「暑い」と言い切るところにとても好感が持てたので、いったいどんな素晴らしい女性なのだろうと思い振り返ってみると、そこには若い女性が一人立っていました。

周りに誰もいないところを見ると、ボクに話しかけてきたようで、彼女はボクと目が合うと、このうえなく友好的な笑顔で、「もっと涼しい場所があるんですよ」と言うと、また意味ありげに笑ったのでした。

第二話:実は宇宙の話

普通に考えて、繁華街の裏道で若い女性に声を掛けられ、その話に乗ったところで、ろくなことがあるわけがありません。だいいち、もっと涼しい場所があるなんて、あまりにも怪し過ぎます。

こんな場合、関わり合いにならないのが最も得策なのですが、これが何かのキャッチセールスだとしても、無視したり頭ごなしに否定したりしては彼女も傷つくでしょうから、ここは大人の対応をとるべきだと思い、ボクは「ほう、そんなに涼しい場所があるんですか、ふむふむ」と独り言のように言って感心してみせました。

すると彼女は急に勢いづき、今日一日ものすごく暑かったことを熱心に語り始め、やがて地球温暖化の話まで引き合いに出し、彼女が知っているその場所がいかに涼しいかを力説し始めたのです。

さすがにそんな長話を聞いているのも面倒くさくなったので、ボクは彼女の話を遮り、「ほう、じゃあそこは北極や南極よりも涼しいんですか?」と、どうしたことか我ながら情けなくなるくらい低レベルの質問をしてしまいました。

すると彼女は一瞬間を置いてからケラケラと声を出して笑いだし、苦しそうに腹を押さえながら上目づかいにボクを見上げ、「そ、それって地球の話じゃないですか」と言うと、また可笑しそうに笑い転げたのでした。

さすがにボクもその態度には不愉快になり、立ち去ろうとしたのですが、彼女はボクの腕を掴み意外なほど強い力でぐっと引き寄せると、急に真面目な顔になり、耳元で「これは宇宙の話なんですよ」とささやいたのでした。

第三話:手首についた指の跡

普通に考えて、繁華街の裏道で見知らぬ女性と宇宙の話をしていても、ろくなことになるわけがありません。だいいち、宇宙がどんなに涼しくったって、どうしようもないのですから。

確かに「その場所は北極や南極よりも涼しいのか」という小学生レベルの質問をしたボクにも問題はありますが、彼女の答えも口から出まかせとしか思えませんでした。このまま会話を続けていても収拾がつかなくなって泥沼に落ちて行くばかりでしょう。

ボクは、これ以上話をしていても実りがない旨を彼女に告げ、歩き出そうとしました。しかし、彼女は両手でボクの腕と手首をつかんだまま離そうとせず、何かを伝えたそうにじっとぼくを見つめていました。

彼女の真剣な眼差しを見てボクは複雑な気持ちになりました。

おそらく彼女は、いつもこんなグズグスな会話をしているわけではないでしょうし、うそをつくようなタイプにも見えませんでした。きっとボクの愚問に付き合ったおかげで引くに引けなくなってしまったのでしょう。こうやって彼女がボクの腕をつかんで離さないのも、元はと言えばボクの責任なのです。

しかしもうどうしようもありません。ボクは彼女の腕を振りほどいて、全力で走りました。

しばらく走ってから腕を見てみると、彼女が握っていた手首の部分に指の跡が付いていることに気づきました。彼女は見かけによらずかなり力が強いようです。

ボクはその時はそんなに深くは考えずに、手首をさすりながら電車に乗り込みました。

第四話:繰り返される愚問

六本木の駅から乗った時は乗客はかなりいたのですが、駅を通過する度にだんだん少なくなり、練馬を越えたころには乗客もまばらになり、終着駅のひとつ手前の駅になると、車両にはボクと向いの席に座っている中年女性の二人だけになりました。

それでも車内はまだ蒸し暑く、4月とは思えないくらいの季節外れの暑さでした。

ボクは電車に乗っている間じゅう、ずっと手首の指の跡を見ていました。指の跡はまだくっきりと付いていて、手首を取り囲んで輪のようになっていました。

間もなく電車は終着駅に着き、ボクが立ち上がろうとした時、前に座っていた中年女性が「暑いわねえ」と言いながら歩み寄ってきました。

この駅は地元なので、この電車で知り合いに会うことは有り勝ちなことなのですが、その女性が誰なのかはさっぱり見当がつきませんした。しかし、おそらく近所の人なのだろうし、何か言っておかなくてはいけないと思い、無難な返事をしました。

ところが、ごく無難に「そうですねえ」と言ったつもりだったのに、ボクの口をついて出てきた言葉は、自分の意思とはまったく関係のない驚くべきもので、それは、さっきこの指の跡を付けた若い女性がボクを呼びとめて言ったセリフ、「もっと涼しい場所があるんですよ」だったのです。

ボクは愕然とし、どうしてそんなことを口走ってしまったのだろうと、指の跡の付いた手首を見つめて考えていたのですが、さらに驚くべきことに、今度はその中年女性が「そこは北極や南極よりも涼しいの?」と聞いてきたのです。

それはさっきボクが言ったセリフでした。

最終話:終わりのない話

頭の中では、どうしてこんなことを口走っているのだろうと戸惑いながらも、口をついて出てくる言葉はお気楽そのもので、ボクは中年女性に向かって「なにを言ってるんですか、それは地球の話でしょ」と言うとケラケラと笑いました。もちろん自分の意思ではありません。

それでも必死になって口をつむごうとしたのですが、どうしても自分をコントロールすることができなくて、ついに「これは宇宙の話なんですよ」ときっぱりと断言してしまいました。しつこいようですが自分の意思ではありません。

頭の中では「とうとう全部言っちゃったよ」とどこか他人事のように感じながらも、どうしていいのか分からずにいたのですが、ボクの話を黙って聞いていた中年女性は、すべてを理解したように満足そうにうなずき、何も言わずに足早に去っていきました。

その後ろ姿を見送りながら、ボクは呆然と立ちつくしていたのですが、中年女性の姿が完全に見えなくなったところでハッと我に返り、周りを見渡しながら「いったい何が起こったんだ」と独り言をつぶやきました。これはおそらく自分の意思です。

と、次の瞬間、周りの気温が一気に下がり始め、ボクはあまりの寒さに立っていられず、手で顔をこすりながら夜道を懸命に走り、やっとの思いで家にたどり着きました。

その夜はどんどん気温が下がり続け、翌日には4月だというのに九州で雪が降りました。

朝のテレビでは、この異常気象を現地から気象予報士が深刻な顔をして伝えていたのですが、スタジオのキャスターは気象予報士の話を聞いて、「そこは北極や南極よりも涼しいの?」と的外れな質問をしました。

ボクはそう質問されて戸惑っている気象予報士の手首を見てみました。すると、やはりくっきりと指の跡が輪のように付いていました。ということは、この生真面目な気象予報士が次に言うであろうセリフも予想できました。そして彼の気象予報士としての終わりも…。

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