湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。

40.バナナ

第一話:歩道に落ちたバナナ

近所の大通りを歩いていたら、後から「あのう、バナナが落ちてますけど」という弱々しい女性の声がしました。

声は聞こえたのですが、ボクがバナナを落とすわけがないし、きっと誰かが買い物帰りに落としたのだろうと思い、わざわざ振り返ることもないだろうと、無視して歩き続けました。

すると、二、三歩いったところで、また後から同じ女性の声がして、今度はちょっと強い口調で「すいません、バナナが落ちてるんですけど」と念を押すように繰り返してきました。

その声はかなりいらだっているようで、ボクはとりあえず立ち止まって振り返ってみました。周りの通行人数人も同じように立ち止まり振り返っていました。

見ると歩道の真ん中にバナナが一本落ちていました。

それは不思議な光景で、仮に誰かがバナナを落としたとしても、普通バナナは房に付いたまま売っているものだから、落とすにしても一本だけ落とすというは不自然です。

声の主らしき女性は、三、四歳くらいの男の子を連れていて、彼女は歩道の真ん中で放心したようにしゃがみこみ、左手で男の子の頭をしっかりと抱きかかえながら、右手でバナナを指差していました。

ボクたちはどうすればいいのか分からず、ただ呆然と立っていました。

彼女はその態度が我慢ならなかったのか、いらだったような甲高い声で「バナナが落ちてるって言ってるじゃないの!」と叫び、男の子の肩に顔を埋めました。

ただならぬ緊迫した空気に周りはみんな凍りついてしまいました。

第二話:真っ赤な指先

数人の通行人が足を止めて歩道に落ちているバナナを見つめていたのですが、落とし主だと名乗り出る人はいませんでした。しかし、女性の只ならぬ剣幕に圧倒されたのか、誰一人立ち去ることなく、みんなその場に立ち尽くしていました。

女性は男の子の肩のところに顔を埋めたまま、左手で男の子の頭を抱きかかえ、右手ではしっかりとバナナを指差していました。

彼女のツメは鋭く伸びていて、真っ赤なマニュキアが塗られていました。その真っ赤な指先が、まるで突き刺すかのように真っ直ぐにバナナに向けられていました。

しばらくこの状態が続き、居たたまれなくなったのか通行人の一人が歩き出そうとしました。

するとその瞬間、顔を伏せていた女性が顔を上げ、「もう今しかないのよ、今しかないの」と、まるで自分を納得させるかのようにつぶやくと、また男の子の肩に頭を埋めました。

その覚悟を決めたような低い声を聞いて、歩き出そうとしていた通行人は動くに動けなくなり、またその場に立ち尽くしてしまいました。

と、次の瞬間、女性に頭を抱きかかえられた男の子がふいに顔をあげ、空を見上げながら絶叫しました。

「バナナマン、バナナマ~ン!」

それはまるでピンチに陥った少年が正義の味方を呼んでいるようでした。

辺りにまた緊迫した空気が流れました。

第三話:バナナマン現る?!

この緊迫した状況から判断して、男の子が呼んでいるのは正義の味方の「バナナマン」であって、漫才コンビの「バナナマン」でないのは明らかです。

万一ウケ狙いで「あのね~、ぼくね~」とか言って、貴乃花の小さい頃のモノマネなんかを披露すると、確実に場を凍らせてしまうでしょう。

幸いにも、みんな場の空気を読んだのか、深刻な表情でバナナを見続けていました。

おそらく、ここに立ち止まっている通行人たちの本心は、すぐにでも「バナナマン」が現れて、この状況を打破してほしい、と考えているに違いありません。

しばらく膠着状態が続き、意を決したのか一人の年配の女性がふいに動き出しました。

みんなの視線は一斉に彼女に集まりました。

彼女は、迷うことなく落ちていたバナナを拾うと男の子に近寄り、頭に手をやり、「ぼうや、バナナマンのおばさんよ、ほら召し上がれ」と、やさしく話しかけながら男の子にバナナを渡そうとしました。

あろうことか、彼女は男の子の懐柔作戦に出たのです。

長い人生の中で彼女はこうやって人間関係を繕ってきたのかもしれません。しかし、的外れにも程があります。普段の状況ならそれでいいのかもしれませんが、今は非常事態であり、男の子はただ単にダダをこねているのではなく、強い意志を持ってバナナマンを呼んでいるのです。

案の定、男の子は女性が持っていたバナナを叩き落とし、「バナナマンじゃないよ」と、今にも泣き出しそうに叫びました。

バナナは歩道に転がり、舗装のデコボコの角に引っかかり、珍しいことに立ったまま止まりました。それはまるでラグビーボールのフリーキックを思わせるポジショニングでした。

ボクは心の中で「ナイスパス」とつぶやきました。

第四話:孤高の司令塔

「偽バナナマン」が男の子にバナナを渡そうとして、男の子がそれを叩き落としたので、バナナが落ちている場所は変わっていました。しかし、さっきからずっとバナナを指差していた女性は、いつの間にか指差す方向を修正していて、ちゃんと正確な位置を示していました。

彼女は顔を上げることなく男の子の肩に顔を埋めたままで、まるで男の子が着ている黄色いシャツで顔を覆い隠しているようにも見えました。垣間見える横顔は何か重大なことを決心したかのように静かで穏やかでした。しかし、真っ赤な指先は揺るぐことなく、しっかりとバナナを指し示めしていました。

その光景を見ていたボクの左足は、まるで別の意志を持った生き物のようにドクッドクッと息づきはじめ、もう抑えきれないくらいに熱くなっていました。

ボクは今にも暴れだしそうな左足に手を当て、視線を上げました。

そう、ボクにはもうすべて分かっていたのです。黄色いシャツに顔を埋めた女性がなぜバナナを指差しているのか、そして今ボクが何をすべきなのか…。

そう、ボクこそが「バナナマン」なのです。

次の瞬間、ボクの左足は鎖を引きちぎった獣のようにうなりをあげて暴れだし、それを抑えるようにボクは右足を一歩踏み込み、鋭くも華麗なフォームでバナナを蹴り上げ、そして叫びました。

「バナナマンキック!」

バナナは低い弾道で一直線に飛んでいきました。

最終話:予想通りのバナナシュート

低い弾道で飛び出したバナナは徐々に高度を上げながらスピードを増し、行き交う車を巧みに交わして大通りを横断、向こう側の歩道に差し掛かったところで大きく弧を描き、今まさに閉じようとしていたスーパーの自動ドアの隙間から店内に入り込みました。

それに気付いた店主が大きく横に飛びながら右手をいっぱいに伸ばしてバナナをキャッチしようとしたのですが、バナナは再び大きく曲がり、その指先をかすめるようにすり抜けると、入り口横の果物売り場の中に飛び込みました。

大方の予想通り、見事なバナナシュートでした。

一瞬の静寂があって、次の瞬間ボクは大歓声に包まれました。

周りの人たちはみんな興奮し、口々にボクを称えました。男たちは車のボンネットに乗って飛び跳ね、女たちは無防備にボクに抱きつきました。黄金の左足にキスするものまで現れる始末です。

ボクは観衆にもみくちゃにされながら、シュートをアシストしてくれた女性を見ました。彼女はまだ男の子をしっかりと抱いたまま、黄色いシャツに顔を埋めていました。

ボクは彼女に「お疲れさま、そしてありがとう」とそっとつぶやくと、その場を立ち去ろうとしました。

しかし観衆たちはボクを取り囲んで離そうしません。次々にボクに触ろうと手を伸ばしてきました。その中に一人だけ明らかに様子が違う男性がいました。彼は顔を真っ赤にし、何かを叫びながらボクにつかみかかろうとしていたのです。どうやら彼はスーパーの店主のようでした。

まあ、彼が何を怒っているのかは分かりませんが、とりあえずボクは観衆を振り切り、黄金の左足で踏み切ると、颯爽と走り去ったのでした。

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