湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。

39.悪夢

第一話:ヒツジ

リニューアル準備と言いながらも、まったくリニューアルは進んでいません。と言うより、まったく手が付けられないような状態が続いているのです。もうかれこれ二ヶ月近くそんな状態が続いているのですから事態は深刻です。きっかけはあの夜の夢でした。あの悪夢を見た夜から、ボクはずっとそうなのです…。

そう、あれは蒸し暑い夜の出来事でした。まさに、悪夢を見るにはお決まりのシチュエーションでした。

ボクは決して寝付きは悪いほうではないのですが、その夜はなかなか眠れなくて、どうしたものかと天井を眺めながらずっと悩んでいたのですが、時間はどんどん過ぎていくばかりで、次の日が月曜日だったこともあり、ボクはだんだん焦ってきて、ついに追い込まれてしまい、ヒツジの数でも数えようと思いました。

思えば、これが悪夢の始まりだったのです。

もちろんヒツジの数を数えること自体は、眠れない時の定番だし、何一つ危険なことはないのですが、その夜は違ったのです。

ボクは早速目を閉じて、ヒツジの姿を思い浮かべようとしました。ところが、どうしたことかまったくヒツジの姿を想像することが出来なかったのです。

もちろん白くて毛むくじゃらのヒツジだったらすぐに想像できたのですが、ボクがその時想像しようとしたのは、体の一部分が黒いヤツで、以前ちょっと見かけただけの品種なのですが、それがまたすばらしく美しい姿をしていて、ヒツジと言ったらアレしか考えられませんでした。

しかし、アレしか考えられない割りには、体のどこを黒くすればいいのかまったく見当が付かず、懸命になっていろいろなパターンを試してみたのですが、どれもシックリくることはなく、どんどん時間は過ぎていったのです。

第二話:どこかが黒いヒツジ

必死になってヒツジの黒い部分を探しているうちに、だんだん不安になってきました。

これだけ長い時間をかけて、ヒツジのいろいろな部分を黒く塗りつぶしてみても、シックリくるものがないのだから、もしかするとボクがいま想像しているヒツジは実在していないのではないか、という疑問がフツフツと湧いてきたのです。

ボクは次第にヒツジの存在を疑うようになりました。

もしかしたら、あの魅惑のヒツジは実在するものではなく、美術館か画廊で見かけた美術品なのかも知れません。アーティストが作りあげた理想のヒツジだったとしたら、それはそれで納得ができます。

いや、もしかしたら小説の中に出てきたヒツジなのかも知れません。ボクは架空のヒツジを、その印象のままに記憶していたのかも知れません。

しかし、どちらにしてもヒツジのどこかを黒くすれば、実在だろうが美術品だろうが、理想のヒツジは現れてくるはずです。

ボクは深呼吸し、出来るだけリラックスしてから、もう一度初めからヒツジの体の一部分を黒く塗りつぶす作業を始めました。ヒツジの体の隅々まで見逃すことなく、一部分を黒く塗り、それが理想のヒツジでなければすぐに消すという作業を、根気強く繰り返し繰り返し行なったのです。

どのくらいそんなことをやっていたでしょうか、ボクはいつの間にか寝てしまったようです。

そして悪夢が始まったのです。

第三話:犬と豚と私

夢というのは不思議なもので、もうこれは夢であると分かっていながらも見ていることがあるもので、特にやっとの思いで寝付けた時などは、多少のことには目をつぶって見続けようという気になるものです。

その夜がちょうどそんな感じでした。

いつの間にか寝てしまったボクは、あまりの寝苦しさに起きそうになったのですが、ここで起きては元も子もないと思いながら、ぐっと我慢して必死になって寝ていました。しかし、あまりの寝苦しさに思わず寝返りを打ち、やっと気づいたのですが、横に巨大な犬が寝そべっていました。暑苦しいはずです。

もちろんこの時点で、これが夢だということは完全に分かっていました。

しかし、下手に犬を刺激してしまうと、犬がワンと吠え、その拍子に目が覚めるなんてことはよくある話で、それだけは避けなければならないと咄嗟に考えました。なんたってやっとの思いで眠れたのだから、今さらそんなことで目を覚ますわけにはいきません。

ボクは犬を刺激しないように、そっと犬から体を離そうとしたのですが、どうしたことか体が思うように動かず、やっとの思いで首だけを動かして反対側を見て驚きました。反対側には犬よりもさらに巨大な豚が寝そべっていたのです。

いくら夢とはいえ、これでは耐えられません。こんな状態では、動物園の熱血飼育員だって逃げ出すに違いありません。

ボクはここでギブアップして起きてしまおうと思いました。

しかし、そう簡単に踏ん切りはつきませんでした。ここで起きてしまえば、また眠れなくなるだろうし、そうすればまたヒツジの数を数えることになります。ボクは理想のヒツジを想像するだろうし、そうするとやはりどこを黒くするか悩んで眠れなくなります。

そんなことを考えながら、ボクはギリギリのところで寝続けていました。

第四話:同じ模様の犬と豚

犬と豚に挟まれて窮屈なところを無理して仰向けになると、右側に巨大な犬、左側にさらに巨大な豚という、ものすごく暑苦しい「川の字」になりました。

ボクは小さく腕組みをし、天井を眺めながら考えました。

どうせ夢なんだからそんなに深刻に考えなくてもよさそうなものですが、夢に動物が出てくるということは、彼らは何らかの事柄を暗示しているはずです。だから、もしボクがここで豚や犬に対して接し方を間違えば、この夢は悪夢に発展する可能性があるのです。ボクの心掛け次第で、未来が変わるといっても過言ではありません。

ボクは明るい将来のために、犬と豚にやさしく接しようと心に決め、気を使いながら右側の犬をそっと見ました。

改めて見てみると、その犬は見たこともないような模様で、体は白っぽいのに顔だけが真っ黒でした。それを見てボクは思わず、「げっ、気持ち悪っ」と言いそうになったのですが、慌てて口をつぐみました。そんなことを言って犬の機嫌を損ねたら大変です。それこそ「悪夢」に発展しかねません。

ボクは努めて冷静に振る舞いながら、今度は豚のほうを向きました。そしてまた声を出しそうになりました。なんと、豚も体が白っぽくて顔だけが真っ黒だったのです。

ボクはまた仰向けになって、小さく腕組みをしながら、不思議なこともあるものだと考えました。

まあ、普通に考えれば、犬と豚の模様が何を暗示しているのかはすぐに分かりそうなものなのですが、そこは夢の中ですから、その辺のところには考えが回らないのです。

ボクは天井を眺めながら「不思議だ、不思議だ」と心の中でつぶやきました。

もちろんまだ夢の中の出来事です。

最終話:悪夢の終わり

巨大な犬と超巨大な豚に挟まれていると、とても暑苦しいのですが、「川の字」で寝ていると、だんだん親しみのようなものが湧いてくるもので、ボクは犬の真っ黒い顔を見ながら「けっこうカワイイ目をしてるじゃないか」とか、同じく真っ黒い顔をして寝ている豚を見ながら「意外にマツゲが長いのね」とか思ったりしていました。

そのうち、こんな窮屈な状態なのに、それがむしろ心地良く感じられるようになり、いっその事このまま二匹とともに暮らしたいなんてことも考えたりしました。

しかしそう考えた瞬間、ボクは夢の中で「いや違う、違うんだ」と首を振りました。

そう、この状態に馴染んではいけないのです。それが悪夢の狙いだからです。こんな異常な状態にもかかわらず、ボクは知らず知らずのうちに馴染み、それを当然のことだと納得し始めていました。しかしそれは理想ではなく、妥協の産物なのです。ここで妥協したら、さらに堕落した思考に突入しかねません。それこそが悪夢の狙いなのですから…。

ボクは早くここから脱出しなくてはならないと強く念じました。

その時、枕元の目覚まし時計が「リン」と短く鳴り、ボクは飛び起きて目覚ましを止め、布団の上に起き上がりました。

当然のことながら、真っ黒い顔をした犬と豚は消えていました。

ボクは窓を開け、どんよりと曇った朝の空を見上げながら思いました。

そう、あの犬と豚の正体は、理想のヒツジの化身だったのです。結局、理想のヒツジを描き切れなかったボクは、夢のなかで妥協し、身近な動物の姿を借り安易に代用したのです。それどころか本来の姿ではない犬と豚にヒツジの姿を見出し、あろうことか心奪われるところだったのです。

ボクはあれ以来、安易な妥協をすることがなくなりました。それはそれでいいことなのですが、そのためリニューアルも滞っているというわけです…。

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