湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。

34.薬剤師ララバイ

第一話:新装開店

近所の商店街にある小さな薬局が改装工事をしていたので、とうとうつぶれてしまったのかと思っていたら、工事が終わってみると、元の薬局がパワーアップした新装開店で、処方箋やら漢方のコーナーが新設されていました。

その薬局には何度も行ったことはあるのですが、薬剤師の人と話すことはなかったので、せっかく新装開店したのだから、漢方でも処方してもらおうと思い、行ってみました。

そこの薬剤師さんはかなり年配の人で、今までは古本屋のおやじみたいな格好だったのですが、新装開店したからでしょうが白衣を着込んでいて、どこか信頼できる雰囲気になっていました。

店に入ってボクが漢方がほしいと言うと、薬剤師さんは舌を出せとか裏返せとかいいながらカルテを作り始めました。

薬剤師さんは熱心に症状を聞いてくるのですが、それよりもボクには机の上に置いてあった「イチョウ葉」のチラシが気になっていました。イチョウ葉は以前にも飲んだことがあるのですが、その効き目は絶大で、いつか最高級品を手に入れたいと思っていたところだったのです。

イチョウ葉の効能としては血流をよくするのが主で、特に脳内の血流がよくなるらしく、物忘れに聞くと言われています。確かに飲んでいると頭脳明晰になったような気がしてきます。

ボクはその年配の薬剤師さんのお勧めの最高級のイチョウ葉を買って帰りました。

その時はこの最高級品の効能はどれほどのものなのか楽しみで、久しぶりにウキウキとした気分で家路を急ぎました。

思えば、これが苦悩の始まりだったのです。

第二話:頭脳明晰、金メダル

最高級イチョウ葉の効果は抜群で、買ってきた夜さっそく飲んで寝たのですが、朝起きた時には頭がスッキリしていて、かつてないほどに頭が冴え渡っていました。

いつもなら朝起きても、すぐにはその日が何曜日か分からず、テレビをつけて平日だと分かってがっかりしてしまうところですが、驚くべきことにその日は、朝起きた瞬間今日一日何をすべきかが次々と頭の中に浮かんできて、きっちりとしたスケジュールが出来上がりました。まるで頭の中に表計算ソフトが入り込んだような早業でした。

新聞を手にすると、読む気もないのにどんどん記事が頭の中に入っていき、ものの数分で読破してしまいました。求人広告まで頭に入っていたので、どこの会社が社員を募集しているのか、待遇はどうなのかも、すべて頭の中で整理されました。まるで頭の中にリレーショナル・データベスソフトが入り込んだような的確さでした。

おまけに体も軽快で、柔軟性が増したようで、立ったまま後に反り返ってそのままブリッジができるほどでした。

ボクは布団の上で「反り返り」を何度も練習してから家を出ました。

駅まで行く道で、練習の成果を出すため後に反り返りながら横向きになって猛烈な勢いで走ってみました。

それ見た通学途中の子供たちは、口々に「あ、イナバウアーだ」と叫びながら憧れの眼差しでボクを見つめていました。

第三話:冷静沈着、プロファイル

ずっと駅まで反り返ったまま爆走していたのですが、駅の手前で急ブレーキをかけ、姿勢を正して駅に入っていきました。切り替えの早さもイチョウ葉のおかげでしょう。ボクは冷静沈着なエリートビジネスマンのように、さりげなく改札を通りました。

電車に乗ってからいつものように新聞を読もうとしたのですが、新聞は今朝数分で読破してしまっているし、他に読むものもないので、何気なく周りの乗客を見渡してみました。

すると今までまったく知らない人たちだとばかり思っていた周りの乗客が、すべて顔見知りであることに気づきました。思えば当たり前のことで、毎朝同じような時刻に同じような電車に乗っているのですから、顔くらいは見ていても当然です。

しかしイチョウ葉のおかげで頭脳明晰、冷静沈着になっているボクにとって、周りの乗客たちは、ただの顔見知りではすみませんでした。乗客たちの顔を見るだけで、以前見かけた時の記憶が瞬時にして蘇ってきて、それがものすごいスピードで的確に情報整理されていき、まるで頭の中にありとあらゆる情報処理ソフトが入り込んでいるようでした。

たとえば、目の前に座っている中年の男性とは10年前に初めて会って以来、なんと1000回以上も会っていることが判明しました。そのうちの数百回は彼は新聞や雑誌を読んでいたので、過去に遡って彼が読んでいた記事を分析すると、彼の嗜好の傾向がつかめました。

彼とは夕方の電車でも何十回か会っていたようです。その時、彼は同僚らしき人といっしょで、社名入りの封筒も持ってました。その時の会話の内容や彼の態度を分析すれば、彼の仕事ぶりや同僚との関係も把握できました。ボクは顔を見るだけで、彼のこれまでの人生はもちろん、これからの行動も予測できるようになっていたのです。

ボクは改めて乗客たちを見渡しました。乗客たちは自分たちの人生が赤裸々にされているとも知らず、いつものようにつまらなそうにぼんやりとしていました。

第四話:浮き上がる法の抜け道

電車に乗っているとだんだん居たたまれなくなってきました。なんたって周りの乗客たちの顔を見るだけで、見たくもないその人の過去が見えてくるのですから、嫌になってしまいます。

ボクはたまらず電車を降りて駅を出ました。しかし街を歩いていても油断できませんでした。うっかりしていると何十年か前に見かけた人を見つけてしまうかもしれないからです。

ボクはうつむいたまま小走りに本屋に駆け込みました。ここなら人の顔を見なくてすみます。

ボクは少し安心して本を開きました。予想通り本の内容はどんどん頭に入っていき、ものの数秒で一冊を読破してしまったのですが、人の過去を探るよりはずっと楽しいので、ボクは店中の本を読み切る勢いで読み漁っていきました。

売り場を移動しているうちに法律書のコーナーに出ました。ボクは迷わず一番分厚い六法全書を手に取ったのですが、その難解な本も数分で読破してしまい、仕方ないのでその売り場にある法律書を端から読み始めました。

そこにある法律書をすべて読み終わった時、頭の中で立体の迷路がグルグルと回転を始めたことに気づきました。それはまるでCDのようにいろいろな角度から映し出されていて、入り組んだ道が立体的に交差している複雑な迷路の構造がよく分かりました。

おそらくこの迷路からは誰も抜け出せないはずです。と言うより誰も抜け出せないように作ってあるはずです。なぜならそれが法律というものだからです。

しかし残念ながらボクにはこの迷路の抜け道がはっきりと見えていました。回転する立体迷路の中に何本もの抜け道があるのが、当たり前のように見えていたのです。まさにそれこそが「法の抜け道」なのです。

この道を通っていけば、ボクは法に触れることなく権力も富も手に入れることができるでしょう。

あまりにも急な展開に、ボクはしばらくその場に立ちすくんでいました。

最終話:それが人の生きる道

ボクは本屋を出てから天を仰ぎました。空には珍しく青空が広がっていて、ボクの心の闇を晴らそうとしているようでした。

それにしてもボクはどうしてこんなに頭脳明晰になってしまったのでしょうか。もう本屋で読む本もありません。頭の中では相変わらず「法の抜け道」がその存在を誇示していて、ボクを悪へと誘っていました。

しかしそれを利用するわけにはいきません。法律は人と人とが共存し尊重し合いながら生きていくために人が決めたものであって、その抜け道が見つかったとしても、それは利用するのではなく、指摘して改善すべきなのです。

確かにこの「法の抜け道」を利用すれば、ボクは権力も富も得ることができるでしょう。しかしそれは本来の人間の生き方ではありません。

ボクはまた天を仰ぎました。昨日あのイチョウ葉さえ飲まなければ、ボクは今日も淡々と仕事をして、その日の出来事もほとんど忘れ果て、それでも幸せに暮らしていたでしょう。

ボクはトボトボとあてもなく歩き出しました。人の顔を見ないようにうつむきながら、どこまでもどこまでも歩きました。

気がついたら昨日の薬局の前まで来ていました。中をのぞいて見ると、昨日の薬剤師さんが新聞を広げて退屈そうにしていました。

ボクはあの薬剤師さんなら、今のこの状況を分かってくれると思い薬局の中に入ろうとしたのですが、入り口のドアがどうしても開かず、無理をしてこじ開けようとしたら、薬剤師さんがそれに気づいて何かを叫び出しました。

何を叫んでいるのかは分からなかったのですが、やたらとうるさかったので、ボクは力いっぱい彼の頭をぶっ叩いてやりました。


やっと静かになったので、ボクはやれやれと思い布団の上であぐらをかきました。枕元を見てみると、目覚まし時計が壊れていて電池が吹っ飛んでいました。それを見て「ああ、またやったか」とつぶやきながら、ふと思いました。

そういえば昨日の夜、最高級の薬を買ったような、それを飲んだような、法の抜け道が見えたような…。

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