湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。

27.わからない男

第一話:わからなくても平気

最近テレビなどを見ていると、株やら企業買収の話やら難しい話が多くて、何を言っているのかさっぱりわかりません。

それも単なる「わからない」ではなく、「頭が拒絶してしまって聞く耳を持たない」というほうが近い状態です。これがバリバリのビジネスマンだと困ってしまうところですが、ボクらはけっこう平気です。

先日も画廊で雑談をしていた時、そこのお客さんが株の話を始めたので、ボクは「何のことだかさっぱりわかりませんなあ」とキッパリと言い切りました。

すると、相手はすぐに反省し、「失礼しました。せっかく芸術作品に囲まれながら株の話なんかしてしまい、申し訳ありません。ああ、なんて私は無粋なんだ」と勝手に自己批判すると、「さあ、芸術の話をしましょう」と目を輝かせたのです。まあ、そんなに熱心に芸術の話をされても困るのですが。

だいたいがこんな感じで、「わからない」危機を脱出することができます。

パソコンを買い換えた時もそうでした。久しぶりにパソコンの初期設定をしようとすると、しばらくやっていなかったので、すっかりやり方を忘れてしまい、メールの設定ができなくなりました。

その悩みを知り合いに打ち明けると、その人は少し驚きましたが、そしてすぐに羨望の眼差しへと変わりました。

まさか今時パソコンの初期設定がわからない人がいるとは思えないその人は、「ああ、なんて向上心がある人なの。いったいどんな高度な設定にチャレンジしているというのかしら」と勝手に解釈していて、ボクを潤んだ目で見つめていました。

ここまでくると、「わからない」ことも武器になります。

第二話:わからない男登場

その男は銀座の画廊街を歩いていました。ボクがいつものように画廊まわりをしていると、何度かその男をみかけました。彼はふらりと画廊に入ってくると、しばらく作品を眺めては無言で出て行き、それを繰り返しているようでしたが、画廊街ではこんなことはよくあることなので、ボクは気にも止めていませんでした。

いくつめかの画廊に入ってみると、その男はもう先に来ていて、ちょうどボクが入っていった時、画家が彼に近づいて自分の作品についての感想を聞いているところでした。その男の風貌があまりにも浮世離れしていたので、画家は彼が有名な評論家かなにかだと勝手に思い込んだのでしょう。

いきなり感想と言われても、おそらく彼は何も考えていなかったでしょうから、すぐには答えられないようでした。彼はしばらく首を傾げていたのですが、ついに何も思い浮かばなかったようで、画家に向かってキッパリと「わからない」と言い放ちました。

あまりにもキッパリと「わからない」と言われた画家は驚き、そしてうなだれ、「やはりそうなんだ」と自分を責めはじめました。画家は「こんな古臭い表現で私の真意なんて伝わるはずがないんだ、画業50年が聞いてあきれるよ」と何度もブツブツ言いながら頭を抱えて画廊のなかを歩き回りました。

ひとしきり自己批判して心の整理ができたのか、画家は彼のところに戻ってきて彼の両手を強く握ると涙ながらに「ありがとう、あなたに会えなかったら私は堕落していただろう」と彼に感謝し、彼もまた画家の両手を強く握り返し、「あなたが向上心のある人でよかった、次回作に期待しますよ」と適当なことを言っていました。

大人って、だいたいこんな感じでわかり合えるものです。

せっかくの感動の場面なのでじゃまをしないようにボクはそっと画廊を出ました。といっても、その男とはまたすぐに出会ってしまうのですが…。

第三話:男を見つめる目がキラリ

次にその男を見かけたのは夕方で、気が付くと前を歩いていました。そのまま彼の後を歩いていると、彼はひとりの女性に声をかけられました。その女性は彼にしきりにお礼を言っていたのですが、彼にはその女性が誰なのかわからないようでした。さすがに「わからない男」です。

その女性は熱心に彼にお礼をしたいとどこかに誘っていたようでしたが、しばらくしてついに飲みに行く話がまとまったのか、二人は近くのショットバーに入っていきました。

そのショットバーはボクもたまに行くのですが、高級感漂うわりには、何杯も飲まなければそんなに高くならないので、ちょっと飲む時には便利な店です。ボクも二人の後について、もう夕方だしちょっと飲むかと思いつつ、その店に入りました。

店に入ると、その女性と男はカウンターに並んで座り、ボクは二人からちょっと離れたカウンターの隅に一人で腰掛けました。ボクは座ってすぐにビールを注文しました。こういうお店ではビールがお徳です。なんたって量が多いから。

その女性は慣れた口ぶりで聞きなれない名前のカクテルを注文し、それを聞いていた男は目を閉じ腕を組み、なにやら考え込んでいるようでした。おそらく女性にあわせて気の利いたカクテルのひとつも注文したいと思っているのでしょうが、思いつかないようです。彼はしばらく考えた末、バーテンダーを呼び、落ち着いた低い声で「何を注文すればいいのかわからない」とあっさり白状してしまいました。

それを聞いたバーテンダーの目がキラリと光りました。

おそらくバーテンダーは「この人は自分を試そうとしているのだな。この落ち着いた物腰は只者ではないし、こんな美人の熱い眼差しをサラリとかわしている。この人に認められたら自分にも明るい未来がくるだろう、銀座はオレのものだ」とでも思ったのでしょうか。

バーテンダーはオリジナルカクテルを精魂こめて作り上げ、男の前に置きました。しかし男はその青くて少量のカクテルを見て、「なんじゃこりゃ」という顔をすると一気に飲み干し、少し後悔したように「もっと大事に飲めばよかった、高くつくな」という顔をしました。

第四話:謝ガールである

その男が二杯目はどうしようかと迷っているようにカクテルグラスを睨み付けているところに、支配人らしき男がやってきました。その支配人らしき男はトニー谷のように軽やかに女性に歩みよると親しげにあいさつし、「わからない男」にも名刺を差し出しました。名刺の雰囲気からして、やはり彼は支配人のようで、とすると支配人がわざわざあいさつに来るくらいですから、只者でないのはこの女性のほうかもしれません。

支配人は女性の横に座り、店の真ん中に飾ってある絵を指差しながら、何か自慢げに話をしていました。彼が指差しているほうを見ると、そこにはシャガールの絵が煌びやかに飾ってありました。

彼女は「ふうん」と支配人の話を軽く受け流すと「わからない男」の方を向いて、「ねえ、どう」と甘えるように聞きました。すこしカクテルがきいてきたのか、彼女は潤んだ目をしていて、その彼女の親しげな態度が、一段と「わからない男」を大物に見せました。

「わからない男」は絵のほうに一瞬目をやり、すぐに反らすとしばらく考え込んでいたのですが、急に「ぷっ」と吹き出しました。

支配人の顔色がさっと変わったのは言うまでもありません。

そりゃあそうです。いくらなんでもマンガの吹きだしじゃあるまいし、「ぷっ」はありません。「ぷっ」なんてわざとらしく笑われたら誰だって怒るに決まっています。

ボクは支配人が激高するに違いないと思って見ていたのですが、なんと支配人は怒るどころか慌ててその絵のところに駆け寄り、壁から外すとそれを持って一目散に控え室に走っていったのでした。

しばらくして支配人は若い女性といっしょに控え室から出てきました。若い女性は手に別の絵を持っていて、その絵はさっきのシャガールとは比べ物にならないくらい「へんてこな絵」で、とてもこの高級感漂う店内には似つかわしくない代物でした。

支配人は顔を真っ赤にして怒っていて、しきりにその若い女の子に怒鳴り散らしていました。彼女はおそらく絵の担当者なのでしょうが、見ていて気の毒なくらいに何度も何度も謝っていました。

それを見ていた「わからない男」はスックと立ち上がり、謝っている女の子を指差すと「おお、あれこそがまさに謝ガールだ」と店内に響き渡るような大声で叫んだのでした。

最終話:スーパーわからない男

店内に平和が戻りました。店の真ん中にはシャガールの替わりに、例の「へんてこな絵」が掛けられ、支配人は満足げにそれを眺めていました。

二杯目のカクテルを手にした女性は「わからない男」を頼もしげに見上げ、片手はそっと男の腕に添えられていました。支配人に怒られて謝り続けていた女の子は、「わからない男」をまるで救世主でも見るかのように、紅潮した顔で遠くから見つめていました。

バーテンダーはといえば、店内の騒ぎなどお構いなしに、今度こそ「わからない男」に気に入られようと、分厚い本を読みながら、まるで科学者のように新作カクテルに挑んでいました。

しかしそれにしても呆れた話です。事の顛末は説明するほどのことでもありませんが、まあ、こんな具合でしょう。

まず、女性が指差す絵を見た男は、いくらなんでもその絵がシャガールだということはわかったのでしょうが、それほど興味がなかったので、すぐに目を反らし、頭の中で「シャガール」に「謝ガール」という漢字をあてて遊んでいたら、謝っている女の子を想像してしまい、思わず「ぷっ」と吹きだしてしまったのでしょう。

それを見ていた支配人が、この絵は贋作なので男が吹きだしたのだと勝手に思い込み、担当の女の子を怒鳴り散らすものだから、女の子は訳もわからず謝り続け、その謝っている女の子の姿が、男が想像していた「謝ガール」そのものだったので、男は実直にも「あれこそが謝ガールだ」と叫んだのです。

それを聞いた支配人は、またまた勝手に勘違いし、女の子が持っていた「へんてこな絵」が本物のシャガールなのだと思い込み、店の真ん中に飾って満足げに眺めているわけです。

ボクは呆れ果てて、美術業界の将来を憂いながら男の方をチラッと見ました、その時ちょうど男と目が合い、男は意外にも「あれっ」と大声を出すと立ち上がり、ボクに向かって満面の笑みで「ひさしぶりですね、こんな所でお会いできるなんて驚きですよ」と言いながら歩み寄ってきて、右手を差し出しました。

もちろんボクはこの男が誰なのかさっぱりわかりません。と言うより、この男を一日中見ていて一瞬たりとも知り合いだとは気づきませんでした。

しかしボクはにこやかに立ち上がり、男の差し出す手を強く握りしめ、「ひさしぶりですね」と答えると、ついでに「相変わらずご活躍のようで…」といい加減なことを言いながら、彼の腕をポンと叩きました。

「わからない男」同士の、あうんの呼吸です。

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