湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。

22.レッドボール

第一話:幸せの赤い玉

先日、名刺が切れたので新しく作ろうと思い、前々から看板が気になっていた近所の印刷所に行きました。

その印刷所はとても小さくて、入り口のドアを開けるとそこが作業場のようになっていてパソコンが数台並び、若い女性が一人パソコンに向かっていました。ボクが「名刺を作りたいのですが」と控えめに入っていくと、彼女が仕事を中断して対応してくれました。

ボクは以前使っていた名刺とロゴの見本を出して、適当に説明しようとしたのですが、彼女がロゴを見ながら「この赤い玉の感じが重要ですね」と鋭い指摘をしたので、ボクも急に熱が入り「そうなんですよ、このロゴのなかの赤い玉は、通称レッドボールと呼ばれていて、この質感が重要なんですよ」と答えました。

彼女が「うん、うん」と熱心に聞いてくれるので、ボクもつい調子に乗って、
「単に質感といっても物質的なことだけを言っているのではありません。このレッドボールは躍動感にあふれ、豊かな物語性を持っていなくてはいけないのです。たとえば、ある夕暮れ時、坂道の上の商店街で福引をやっていたとしましょう。もちろん一等は赤い玉、レッドボールです。そこに幸運なお客さんが来て、レッドボールを引き当てたとします。ところがそのレッドボールは、勢い余って福引の受け皿から落ち、大きく跳ねながら坂道を下っていくのですよ。レッドボールが大きく跳ねるたびに、今まさに沈もうとしている夕陽に重なり、その姿は見えたり隠れたりします。通りすがりの人たちは振り返ってそのレッドボールを目で追いながら、ああ、幸運とはこんなものなんだな、と納得するわけですよ。そんなレッドボールにしてください」
と内心適当でいいのだけどと思いながら、熱く語ってしまいました。

彼女はボクの話に相槌をうちながら熱心にメモと取り、話が終わると、だいたい分かりました、と言いながら若々しい笑顔を見せました。

ボクは心から幸せを感じました。分かり合えるってすばらしい。

第二話:パーフェクトメイクの美女

名刺を注文してから数日して、印刷所の受付の女性から、どうしてもレッドボールの質感がうまく出せないという電話をもらったので、ボクはまたイソイソと印刷所に出かけました。

彼女はボクを見ると、カラー校正を手に受付のところまで小走りでやってきて、困ったようにボクを見つめ「どうしても物語性が出ないんです」と言いながら、さも困ったように校正紙を広げました。

ボクはその校正紙を眺めながら悩みました。もともと適当に印刷してもらえばよかったわけで、校正なんか見るつもりはなかったし、出来はこれで十分なので今すぐにでも印刷してほしいくらいです。しかし先日熱弁をふるったおかげで、次に何て言えばいいのかうまい言葉が見つからずに、ボクは腕を組んで無言のまま天を仰ぎました。

彼女はボクの様子を見て校正の出来に不満があるのだと思ったらしく、あわてて「申し訳ございません、担当の者を呼んでまいります」と言うと、ボクの返事も聞かずにまた小走りにかけていき奥のドアを開けて中に入っていきました。

ボクはさらに困ってしまいました。担当の人というのはきっとベテランの職人で、気難しいおじいさんに違いありません。ボクはどうやってそのおじいさんから逃れようかと、引き続き天を仰いで考えました。

ところが、奥の部屋から出てきたのは、この近所では見たこともないような美女で、まるでデパートの化粧品売り場にいる女性のようなパーフェクトメイクをしていました。ブルーのカーディガンがよく似合っていて、受付の彼女とどこか雰囲気が似ていました。

その美女はカラー校正を見ると、「申し訳ございません、もう一度やってみます」と、申し訳なさそうに、その美しい眉間にシワをよせました。

ボクはこの美女の登場でまたまた調子に乗ってしまい、「いやいや、ボクの説明も悪かったんですよ」と切り出すと、またまたどうでもいいような話をはじめたのでした。

第三話:人生勇気が必要だ

まずボクはパーフェクトメイクの美女にこう切り出しました。

「以前このレッドボールの説明をした時は、この質感を出すには躍動感と物語性が必要だと言ったのですが、物語性というのが分かりにくかったのだと思います。分かりやすく言えば、このレッドボールは勇者の必需品であるということです」

ここまで話したところでボクはチラッと美女の表情を観察してみました。彼女は小さくうなずきながら熱心に話を聞いてくれていたので、ボクは安心して話を続けました。

「たとえば一人の勇者が湖にレッドボールを落としたとします。すると三つの玉を持った池の精が現れて、あなたが落としたのはゴールデンボールですか、シルバーボールですか、それともレッドボールですか、と勇者に聞きます。さて勇者は…」

話はまだまだ続くのですが、この時点でこの話は失敗だったと気づきました。頭の中で考えている時はけっこう面白いと思ったのですが、いざ口に出してみるとサッパリの出来でした。まあ、こんなことはよくあることなのですが、後悔すべきはよりによってこんな美女の前で、こんな退屈な話をするハメに陥ってしまったことです。ボクは話しながら困り果ててしまいました。

しかし途中で話を止めるわけにもいかず、かといって気の利いた展開に持ち込むことも出来ず、結局「レッドボールには正義と勇気が必要だ」という意味不明な話をグズグズとしてしまいました。

最後まで黙って聞いていた美女は「うん、そうですね、正義と勇気がポイントなんですね」と生真面目にうなずき、10歳は若返ったような笑顔でボクを見ると「チーフディレクターを呼んできます」と言い残し、爽やかな風を起こしながら奥のドアへと小走りにかけていきました。

ボクは呆然とその後姿を見送りながら「受付の彼女によく似ているな」とボンヤリ考えていました。

第四話:チーフディレクターが見たもの

受付の美女が奥の部屋から呼んできた「担当の人」が、あのパーフェクトメイクの美女ですから、その彼女が「チーフディレクター」だと言って呼びにいった人も、ひょっとすると違うタイプの美女ではないかと、ボクは内心サプライズを期待していました。

しかし、奥の部屋から出てきたのは、どうみてもベテラン職人という風情の気難しそうなおじさんで、この偏屈そうなおじさんが「チーフディレクター」だというのですから、違った意味での驚きではありました。

そのチーフディレクターが受付のところまでくると、二人の美女は彼にレッドボールについての説明を始めました。

彼女たちがボクのいいかげんな話を真面目な顔をしてチーフディレクターに伝えているを見ていると、居たたまれない気持ちになったのですが、感心したのは彼女たちがボクの話を十分理解したうえで、自分の言葉にして説明していたことでした。あの空虚な話をどうしたらここまで分かりやすく解説できるのか、不思議に思いながら聞いていました。

チーフディレクターは彼女たちの話を聞き終わると、ボクのほうを向き直り「これが今まで使っていた名刺ですね」と言いながら、見本に持ってきていた古い名刺を手にしました。ボクは「そうなんですよ」と答えただけで、さすがにおじさん相手だと軽口をたたく気にもなれず、いっしょになって名刺を見ていました。

チーフディレクターはしばらく古い名刺を見ていたのですが、考えがまとまったのか急に顔を上げ、「分かりました、見本通りですね」と言うと、振り向きもせず奥の部屋に戻っていきました。

そのぶっきらぼうな態度に彼女たちはあわてていたのですが、ボクは難関を突破した喜びにあふれていました。それはちょうど恋人の父親に初めて会って無事何事もなかった時のような達成感でした。

第五話:寄り添う二人の美女

数日して印刷所から名刺が出来上がったという連絡があったので、ボクはまたイソイソと出かけました。

名刺はよく出来上がっていて、箱の上に置いてある見本の一枚を見ただけでボクは満足し、「よく出来てますね、希望通りです」と受付の女の子に伝えました。

彼女が安心したように笑ったので、ボクはまた調子に乗って、「ロゴの中のレッドボールから躍動感と物語性が見事に伝わってきています。5年まえの会社の草創期を思い出すなあ。それに正義と…」とここまで言ったところで言葉に詰まってしまいました。正義と何だったのか急に思い出せなくなったのです。

だいたいこの手の話はいつも適当に話しているので、いざ振り返って思い出そうとしてもなかなか思い出せないものです。

しかしなんとか思い出そうとして考えていると、背後から「勇気が足りないんだわ」という声がしました。それを聞いて、そうそう勇気が足りなかったんだ、とやっと思い出し、「近頃物忘れがひどくてね」と自嘲気味に笑いながら振り返ってみると、そこにはパーフェクトメイクの美女が呆然として立っていて、彼女は「やっぱり勇気が表現できていないんですね」と言うと、力なくうなだれました。

ボクは彼女が重大な勘違いをしているのに気づき、あわてて「いやいや、そういう意味じゃなくて、単に言葉を思い出せなかっただけですから」と言い訳しようとしたのですが、それを遮るように受付の女の子が「ねえさん」と叫び、パーフェクトメイクの美女に駆け寄りました。

素直に名刺を受け取って帰ればよかったものを、またボクの軽口が原因で事態は思わぬ展開をみせることになるのですが、この時点ではそんなことは知るよしもないボクは、寄り添う二人の美女を眺めながら、「雰囲気がよく似ていると思ったら二人は姉妹だったのか、美人姉妹だなあ」とノンキに考えていたのでした。

第六話:いや、勇気はある

名刺の印刷を失敗したと勘違いしてうなだれている美人姉妹を前に、ボクは何と言えばいいのか分からず、カウンターの上に置いてある名刺をボンヤリと眺めていました。

改めて見てみると、名刺は非常によく出来ていて、細かい部分の製版もインキの乗り具合も見事で、ロゴの中のレッドボールは若い会社を象徴するように躍動感にあふれ、真新しい正義を語っているかのようでした。

しかし「勇気」となると、ほかの三つの要素である「躍動感」「物語性」「正義」に比べ、形として印刷物に込めることが困難な概念ですから、なんとも判断がつきませんでした。そもそもこれは無理な依頼だったということです。

ボクはこのことを彼女たちに告げて謝ろうと思ったのですが、なかなかその機会がなく、ひたすら名刺を眺めていました。

しばらくして、うなだれていた彼女が様子を伺うようにボクのほうに顔を向けたので、今こそチャンスだと思い、勢い込んで声をかけようとしたのですが、同じタイミングで「いや、勇気は表現できている」という力強い声がしました。

三人で一斉に声のしたほうを向くと、そこにはチーフディレクターが壁に寄りかかるようにして立っていて、ボクたちの視線が集まると、彼は「その名刺には十分に勇気が込められている」とさらに強く断言し、ゆっくりとこちらに向かって歩きだしました。

その勇ましい姿を見て二人の姉妹は「おとうさん」とすがるように叫びました。

第七話:親子三人、プラスワン

三人が親子だったことも驚きなら、チーフディレクターが「勇気が表現できている」と断言したことも意外でした。ボクは改めて名刺を見ながら想像力をかき立て、レッドボールから「勇気」を読み取ろうと再挑戦してみました。

ボクが懸命に名刺を凝視しているあいだに、チーフディレクターは受付カウンターのところまで来て、姉妹二人を含め四人で名刺を囲むような格好になりました。普段のこの親子の雰囲気は知るはずもないのですが、明らかにただならぬ重苦しい空気が漂っていました。

しばらく四人で名刺を眺めていたのですが、ふとチーフディレクターが顔を上げ、受付の女の子に向かって「いつも言っているように、この仕事で重要なのは、お客さんの話をよく聞くことだ」と諭すように言い、それを聞いた受付の女の子は黙ってうなずきました。

その様子を見ていたボクは、心の中で「大丈夫ですよ、おとうさん」とすかさず相槌を打ちました。そして「お嬢さんはそれはそれは熱心に話を聞いてくれて、ボクは気持ちよく説明ができましたよ。それにボクのいいかげんな話をよく理解して、おとうさんに的確に伝えていましたよ。いやいや、いい娘さんだ」と表情を変えずに心の中で訴えました。

ところが、受付の女の子は「だけど」と困ったような顔をすると、力なく「カラー校正が出た時、十分にお話を理解していなかったことに気が付いたの」と言うと、また悲しそうにうつむいたのです。

ボクは彼女の悲しげな表情に心乱れ、可憐で健全な思考に心打たれ、あらんかぎりの情熱を込めて心の中で絶叫しました。

「何を言ってるんですか、フォー。あなたほどボクの話をまともに聞いてくれた人なんて過去に一人もいませんよ。ボクが話し出せば嘲笑の嵐でしたよ、いつもいつも、いつの時代も。あなたは時代の開拓者ですか、フォー」

ボクの心の中の絶叫とは裏腹に、重苦しい雰囲気はさらに続き、四人は押し黙ったまま名刺を見つめ続けたのでした。

第八話:まだまだ続く心の叫び

ボクの心の絶叫を知ってか知らでか、相変わらず美人姉妹は名刺を見ながら悩み込んでいて、チーフディレクターも彼女たちの結論が出るまで待つ覚悟のようで、じっと成り行きを見守っていました。

ボクはその様子をチラッチラッと覗き見していたのですが、あまりにも長いこと三人に変化がないので、次第に手持ち無沙汰になり、だんだん昼寝に飽きた幼稚園児のようにソワソワしてきました。

もういっそのこと「じゃあ、そういうことで」とか言って帰ってしまおうかとも考えたのですが、そもそもボクの軽口が原因ですし、そういうわけにもいかず、なんとか早く結論が出ないものかとそのことばかりを考えるようになりました。

やっと長い沈黙を破って口を開いたのは姉妹のおねえさんのほう、つまりパーフェクトメイクの美女でした。彼女は控えめに「見本かしら…」とつぶやくと、また考え込んでしまいました。

ボクは心の中で「よ、待ってました。真打ち登場だね。よ、悩んだ顔がまたステキだね。よ、もう一声お願い」と自分のキャラが把握できないくらい半ばヤケ気味に声をかけたのですが、もちろん表向きはまったく表情は変えず、腕を組みなおし深刻なポーズで続きを待ちました。

しばらくして彼女は確信したように「やっぱりそうだわ、見本だわ、ねえ、おとさん」とチーフディレクターに向かって輝くばかりの笑顔で訴えかけました。

チーフディレクターも「そうだ、見本だ」とやっと笑顔を見せました。彼が初めて見せる笑顔に、ボクは心の中で「よ、おとうさんの笑顔もステキ」ともう完全にヤケになってはやし立てました。

あくまでも心の中での叫びですけど。

第九話:可能性としての勇気

チーフディレクターは「よくぞここまで成長したな」と言わんばかりに姉を満面の笑みで見つめ、まだ理解できていない妹に向かって、にこやかに説明を始めました。

彼は新しく刷り上った名刺を手に取り、そしてボクが見本として持ってきていた古い名刺に視線を落としながら「つまりこの名刺は見本通りに作ったということだ」と静かに切り出すと、「しかし、この2つの名刺のレッドボールに込められた勇気は別の種類のものなんだ」と続けました。

ボクは思わぬ展開に耳を疑いました。見本通りに作っているのに、2つの名刺のレッドボールは違う種類のものだというのは、いったいどういうことなのでしょうか。チーフディレクターはボクのほうには向かず、あくまでも妹に説明する形で話を続けました。

「見本の名刺はすでに使っていたものだから、その中にあるレッドボールには使っていた人の経験や感情が少なからず込められている。だから勇気という概念もその人をイメージしながら見れば感じ取ることができるんだ。しかし新しく刷り上ったものにはそれがない。それは当たり前のことだ、これから使うものなんだから」

チーフディレクターはここまで一気に話すと少し間を置き、続けました。

「だからこそ私たちが見本通りに作るという場合、その見本の実績を把握し、お客さんの要望を理解し、そして未来に適応するように制作しなければならないんだ。それが私たちの仕事なんだ。私たちが刷り上げたレッドボールには勇気が込められている。可能性としての勇気だ」

ボクはこの分かりにくい話に職人のこだわりと深い洞察力を見ました。そして改めて刷り上ったばかりの名刺を見てみました。そう言われて見ると、なんだかレッドボールに大いなる可能性が秘められているような気がしてきました。

ボクはわけが分からないまま「おとうさん」と叫びたくなりました。もちろん心の中の絶叫ですけど。

最終話:不幸な結末

一時はボクの軽口のせいで、親子の仲が危ぶまれるほど深刻な事態になってしまったのですが、なんとか一番いい形で幕を引けそうです。

娘たちは、仕事に誇りを持ち向上心あるれる父親の姿から多くのことを学んだでしょうし、ベテラン職人の父親も、娘たちに自分の思いを素直に伝えるいい機会になったに違いありません。

父親を誇らしげに見ていた受付の女の子は、甘えるように「じゃあ、私たちの今までの仕事は間違っていなかったのね」と首をかしげてみせました。

チーフディレクターも満面の笑みでそれに答え、「そうだ、今までのように心を込めてお客さんの話を聞き、お客さんの気持ちになって印刷物を作り上げるんだ。それが私たちの仕事だ。私が50年続けてきた仕事だ」と胸を張りました。

美人姉妹は「おとうさん」と叫ぶと、チーフディレクターに次々と抱きつきました。

それを見ていたボクも、職人の心意気と親子愛に感動し、思わず「おとうさん」と大声で叫んでしまいました。いままでずっと心の中でおとうさんと呼んでいたので、つい口に出てしまったのです。

怪訝そうにボクを見つめるチーフディレクターの顔にハッとし、これでは誤解されかねないと思い、あわてて「おとうさんと呼ばせてください」と改めてお願いしました。

しかしこれではもっと誤解されそうなので、おとうさんと呼ぶなと言ってくれてもいいですよ、という意味で、「どっちでもいいです」と付け加えたのですが、今度はあれほど友好的だった美人姉妹にも怪訝そうな目で見られてしまったのです。

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