湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。

17.カラスの冒険

第一話:エレベーター二人きり

連休が続くと相変わらず自堕落になってしまい、昼ごろ起きだして近所の商店街で雑誌でも買ってきて、またダラダラ過ごすというのが習慣になっています。

先週の土曜日も連休中だったのでいつものように昼すぎに起き、雑誌を買いにコンビニに出かけ、すぐにマンションに戻ってきて、一階にある郵便受けから郵便物を取り出して、裏返して差出人を見ながらエレベーターに乗り込みました。

扉を閉めようとすると、ちょっと待って下さいという声が聞こえたような気がしたので、ボクは郵便物を見ながら「開」のボタンを押して待ちました。しばらくしても誰も入って来ないので、気のせいだったのだろうかと思い「閉」のボタンを押そうとして視線を落とすと、なにやら黒い物体がエレベーターに乗り込んでくるのが目に入り、あわてて「開」のボタンを押し直しました。

よく見るとそれは一羽のカラスで、のんびり歩きながらエレベータに乗り込み、奥の角のところまで行くと、出入り口の方に向き直して止まりました。

こりゃどうしたものかとボクは迷いました。さっき声がしたような気がしたので飼い主が続いて現れるのかもしれないし、このままエレベーターの扉を閉めるとカラスはびっくりして暴れ出すかもしれないと思ったからです。しかし飼い主が現れる様子もなく、カラスもじっとしたまま落ち着いていて、明らかに自分の意思で載ってきたという印象でした。

とりあえずボクは「開」のボタンから指を離してみました。しばらくして扉はガタンと音を立てて閉まりましたが、カラスはまったく慌てる様子はなく落ち着いたままでした。

行き先階のボタンを押していなかったのでエレベーターは止まったままで、妙な静けさのなか、ボクたち「二人」の気まずい関係が始まったのです。

第二話:堂々とした珍客

1階で止まったままのエレベーターの中でボクは悩みました。部屋は7階なのでいつものように7階のボタンを押せばいいのですが、同乗のカラスがどの階に行きたいのかがわかりません。

そもそもカラスには翼があるわけですから、何階に行きたいとかそんな次元ではないような気もするのですが、こうしてエレベーターに乗っている以上、なんらかの目的はあるのでしょうし、だからと言って何階ですかと聞くわけにもいかず、もしかしたらどの階にも行きたくなくて、このままこうしていたいのかも知れません。ボクはどの階のボタンも押せないまま、カラスをチラッと見ました。

カラスは堂々としていました。最近では朝のゴミ置き場などでよくカラスを見かけるので、この距離で見てもそれほど驚くことはないのですが、改めて見るとやはり威圧感のある大きな鳥で、このカラスは若鳥のようで、羽が黒々としていて濡れたように美しく、クチバシに欠けや汚れもなく、目もきれいで濁りがありませんでした。

その美しさもあって、ボクは何度かチラッチラッとカラスを盗み見していたのですが、カラスはまったく動じる気配はありませんでした。それでもあまりにもボクが見るものだから、何度目かに目があった時、一瞬恥ずかしそうな素振りを見せました。

ボクは反省しました。いくら相手が珍客だからと言って、同じエレベーターに乗っている同乗者に変わりはありません。それを行く先のボタンも押さずに何度ものぞき見するということは、一般的に言って許されることではありません。

ボクはカラスを見習って堂々と姿勢をただし、「ボクは7階に行くよ、君は?」くらいの勢いで7階のボタンを押しました。押してからチラッとまたカラスの方を見ました。これは「どう?」という確認の意味のチラッですから問題はないと判断しました。カラスはボクと目は合わさず前を見ていました。

やっとエレベーターが動き始めました。

第三話:向上心の強い若者

エレベーターがガクンと動きだした時、ふいをつかれたカラスはふらつき、ちょっと羽根を広げてバランスを取りました。やっと持ち直したカラスはボクを見て気まずそうな顔をしたので、ボクは「しょうがないよ、急に動きだしたんだから」という顔をして慰めました。

それでもカラスは悲しそうな顔をしてボクを見るので、「わかったよ、今のは見なかったことにするよ」という顔をして答えました。

2階でまたエレベーターは止まり、外を確認したのですが誰もいなかったので「閉」のボタンを押し、しばらくするとエレベーターはまたガクンと音を立てて動きだしました。

またよろけてるかなと思ってカラスを見てみると、今度はグッと踏ん張って耐えていました。揺れに耐えながらカラスはボクの指先を首を傾けながらじっと見ていました。どうやら「開」とか「閉」とかのボタンに興味を持っているようです。このカラスは人一倍好奇心が強くて、負けず嫌いで向上心が強いようです。

そのひたむきさに答えるべくボクは「君ほどの向上心があれば、エレベーターのボタンなんてすぐに押せるようになるよ。もっともその時にはボクは空を飛べるようになってるだろうけどね」という顔をしてカラスを見ました。

するとカラスは「エレベーターのボタンなんてすぐに押せるようになりますよ」というようなムキになった顔をしたので、ボクはそれもそうだなと思い、「こりゃ一本とられましたな」という顔をしてカラスを見たのですが、カラスはもう平静を取り戻していて、まっすぐ前を向いていました。

エレベーターは次に4階に止まり、事件は起きたのです。

第四話:だんご三姉妹

このエレベーターは住居用マンションのものですから、デパートみたいに4階に止まったからといって、これから上の階に行く人はまずいないので、おそらくさっきの2階のように誰かがボタンを押し間違えただけで、誰もいないのだろうと思っていました。

ところが扉が開くと、間の悪いことに3人のおばさんが所在無く立っていて、おしゃべりに夢中になっていました。3人ともお団子のような丸い顔をしていて、それがきれいに3つ並んでいました。

その一人がボクに「ごめんなさいね、上と下を押し間違っちゃって」と謝ろうとしたのですが、その言葉をかき消すように他のおばさんが「ギャー、カラスがいる」と派手に悲鳴をあげました。ボクはあわてて「閉」のボタンを押したのですが、扉は開いたばかりなのでなかなか閉まらず、その間おばさんたちは口々に「いやだわ、気持ち悪い」とか「怖いわ、なにか縁起の悪いことが起こるんじゃないかしら」とか「区役所に連絡しましょうよ、都庁がいいかしら」とか散々なことを言い出しました。

だんご三姉妹の軽薄な罵詈雑言は次々と出てきたのですが、やっとエレベーターの扉が閉まって動き出し、おばさんたちの丸い顔とともにその声も消えていきました。

ボクはエレベーターのボタンを見つめながら、うなりました。まさにカラスに合わせる顔がありません。確かにこの鳥はどうみてもカラスなので、あのおばさんたちの対応も無理はないのですが、あまりにもカラスという概念にとらわれ過ぎです。もう少し踏み込んで観察すれば、エレベーターの隅でじっとしているこの若く美しく鳥が、気持ち悪いはずも怖いはずもありません。世の中にはこんなことが多過ぎます。

ボクはちょっとだけカラスを見ました。カラスは相変わらず堂々としていて、その姿はカラスという宿命を一身に受け止めようとしているようにも見えました。

やっとエレベーターは7階で止まり、ボクたち「二人」の目的地に着いたのでした。

最終話:小さくなっていく後姿

7階に着いて扉が開くと、カラスはチラッとボクのほうを見てから、入ってきた時よりもかなり早足でエレベーターを出ました。出たらすぐに両足でピョンピョンと三度ほど跳ね、バサッと一度羽ばたいて、マンションの外側通路の手すりの上に止まりました。

ボクはカラスの後を追って通路に出て、「二人」並んで外の景色を眺めました。

この通路は毎日通っているのですが、いつもは下を見ながら「ここから落ちたら大変だな」とか「落ちないようにしなきゃ」とか「いっそ飛び下りてやろうか」なんてことしか考えていなかったのですが、こうしてカラスと並んで遠くを眺めていると、心の底から晴々とした気持ちになりました。

思えば、ここは7階だし、前に障害物がないので見晴らしはけっこうよくて、どうして今まで下ばかり見て歩いていたのか不思議に思えてきました。
             
カラスの視線の先には大きな緑地があり、ボクたち「二人」はしばらくその方向を眺めていたのですが、カラスは何の前触れもなく、突然飛び下りるように体を投げ出すと大きな翼を広げ、力強く羽ばたきながら緑地の方向に一直線に飛んでいきました。なにひとつ迷うことのない見事な決断力でした。

ボクはだんだん小さくなっていくカラスの後姿を目で追いながら、これはカラスの小さな冒険だったのだと思いました。空を自由に飛べる彼らにとって、狭い箱でビルを上がったり下がったりするエレベーターはまったく不必要で無縁のものです。しかしあの若いカラスは、あえてその非日常の中に身を投じ、大きくて強い翼を折り畳んで、あの窮屈で危険なエレベーターの中に居たのです。

ボクは堂々としたカラスの姿を思い出しながら、いつものように通路を歩いて部屋に向かいました。いつもと違うのはもう下を見なくなったことです。どうせ下を見てもあの「だんご三姉妹」がいて、ひたすら日常をむさぼっているだけですから。

↑ PAGE TOP