湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。

11.夏まつり

第一話:潮の香りがした夜

夏といえばビアガーデンでして、あんまりビールは飲んじゃいけないと健康診断のたびに言われてはいるのですが、やっぱり抑えきれずに行ってしまいます。先日も行きつけのビアガーデンに寄って、ブラブラと帰っていたのですが、どこをどう間違ったのか、通い慣れているはずの道がさっぱり分からなくなり、見知らぬ町に出てしまいました。

ふと見ると闇の中から浮き上がるように明かりが灯っている一角があって、近づいて見るとそこは小さな公園で、広場の真ん中にやぐらが建てられていて、まさに夏まつりの最中でした。

夏まつりといえば子供の頃を思い出します。ボクは子どもの頃は九州の海辺に住んでいたので、夏まつりは大いに盛り上がり、我を忘れて踊ったものでした。まつりの魅力は、なんといっても「非日常」の空間が作り出されることで、この夜だけは大人も子供も普段の生活を忘れて、裸の心をさらけ出します。

しかし、都会のまつりではそうもいきません。ほとんどの場合が住宅街にある公園で開催されているので、いくらまつりに来ている人が非日常を作ろうとしても、公園の周りに会社帰りのサラリーマンが疲れた顔でうろうろしていたら、もう台無しです。

だからボクは都会の夏まつりは、夕涼み気分で楽しむことにしています。その夜も軽い気持ちで公園に入ろうとしました。

ところが、その夜見た夏まつりはどうも様子が違っていました。踊っている男たちの迫力が夕涼みとかいう生易しいものではなかったのです。男たちは褐色の肉体を躍動させながら一心不乱に踊っていました。ハヤシに合わせて発する太く短い声は力強く、それはまるで自分自身が持っているすべての脆弱さを吹き飛ばすかのように、祈りと覚悟に満ちていました。どう見てもそれは漁師たちの踊りでした。海辺の町の夏まつりとしか思えませんでした。

ボクは子供の頃のことを思い出しました。波の打ち寄せる音を聞きながら見た大人の男たちが踊る姿が蘇ってきました。あの血が踊るような夏まつりの夜が、この都会の真ん中で鮮やかに蘇ってきたのです。どこからともなく潮の香りがしたような気がしました。

第二話:非日常の壁

男たちの激しい踊りを見ていると、すぐにでもその輪の中に加わりたい衝動にかられました。血沸き肉踊るとはこのことです。ボクは勢いよく公園の中に飛び込もうとしました。しかし、まったく体は動かず、一歩も公園に入ることはできませんでした。まるで公園の周りに見えないバリアが張ってあって、侵入者をこばんでいるように思えました。

ボクは公園の入り口に立ち尽くし、考え込みました。

おそらくボクがこの公園に入れないのは、体に染みついている「日常」のせいなのでしょう。公園の中は見事なまでに「非日常」の空間が出来上がっています。参加している人たちは紛れもなく全員が「まつり人」で、まつりのためだけに集まり、まつりのことだけを考え、時を忘れ、我を忘れて踊っているのです。とてもではありませんが「日常」をだらだらと引きずっている通行人が入り込む余地などないのです。

ボクは嘆き、そして呻きました。

「ああ、こんなに精神は高揚しているのに、どうしてボクは日常を脱ぎ去ることができないのだ。毎日の生活で適当に妥協しながら生きてきたから日常はボクにまつわりついて離れないのか。ボクはもう心を裸にすることはできないのか。我を忘れて熱中することはできないのか。二度と夏まつりの感動を味わえないのか」

ボクが絶望してうなだれていると背後から声がしました。

「お客様、お一人ですか」

振り向くと、六本木のクラブにいそうな黒服のイケメンがにこやかに立っていて、目が合うとさらに微笑み、続けました。

「ただいまのお時間でしたら、お得なコースがございますよ」

第三話:マッチ売りの少女

黒服のイケメンに案内されたのは公園の隅にある控室でした。中は薄暗くて狭く、奥に不自然なほど大きな鏡がありました。そこで服をすべて脱ぎ、茶色のクリームを全身に塗りました。衣装は真っ白なサラシだけで、言われるがままにそれを体に巻き、すべての準備が終わると鏡に全身を映してみました。

照明が暗くてよく見えないせいか、鏡に映る自分の体は色黒でたくましく、どう見ても海の男にしか見えませんでした。そう思うと不思議なもので、体中の筋肉が荒々しく躍動をはじめ、熱い血潮がドクドクと体の隅々にまで流れていき、体にはみるみる力がみなぎっていき、もう抑えることができなくなっていったのです。

ボクは控室を飛び出すと公園の真ん中までまっしぐらに駆けていきました。そして男たちが踊っているところまでくると立ち止まり、息を整えながら改めて男たちの踊りを見ました。ついにこの輪に入る時がきたのです。ボクは左腕で力こぶを作り、そのたくましく隆起した褐色の腕にキスしながら言いました。

「ステキな夜になりそうだぜ」

ボクは他人の事などいっさい気にせず、ただひたすた両手両足を激しく動かしながら踊りました。時には大きな叫び声をあげ、日頃の自分を吹き飛ばしました。やがていつもの心配事が思い出せなくなり、人を恨む気持ちや憎しみが消え、ついには俗っぽい欲望を感じなくなりました。まさになにもかもを忘れて踊り続けたのです。

どのくらい踊っていたでしょうか。さすがに疲れてきたので踊りの輪を離れ、すこし休むことにしました。心地よい疲労を全身に感じながら踊りの輪を眺めていると、背後からまた声がしました。

「おじちゃん、マッチ買ってよ」

振り向くと、マッチ箱がたくさん入った大きなカゴを持った5、6歳の女の子が立っていました。

その格好はどう見てもマッチ売りの少女でした。

第四話:消えた107の煩悩

マッチ売りの少女は、大人びた口調で「仕上げにマッチはいかがですか」と言いながらカゴからマッチ箱を取り出しました。仕上げという意味がよく分からなかったのですが、大人をまねた口調をまた聞きたかったので「どんな商品があるのですか」と聞き返してみました。

すると少女は「フルセット108がおすすめですね」とまた大人びた口調で言うので、ついつい「じゃあ、それをいただきましょうか」と答えてしまいました。商談がまとまると少女は振り向きもせずに駆けていき、やがて闇の中に消えました。

ボクは「フルセット108」の箱を開けてみました。中には大きめのマッチがきれいに並んで入っていて、高級マッチの趣がありました。おそらく108本入っているのでしょう。

せっかくなので箱から一本取り出して、箱の横に付いている紙ヤスリでこすってみました。マッチはボワッと燃え上がり辺りを明るく照らし、ボクは吸い込まれるようにその炎に見入りました。しばらしくて炎が消え、辺りがスッと暗くなった時、ボクの中に奇妙な感覚が残っているのに気づきました。炎が消えるのと同時に、心の中の闇のような感情が消えていったような気がしたのです。

ボクはもう一本マッチをすってみました。またボワッと炎がつき、しばらく辺りを照らしてスッと消え、やはりそれと同時に何かが消え去り、晴々とした気分になりました。少女が言っていた「仕上げ」とはこのことだったのでしょうか。

ボクは夢中になって次々とマッチをすり続けました。炎が消える度に心の中の煩悩が消え去り、魂がどんどん純化されていくのがはっきりわかりました。そして最後の一本になった時、また背後で声がしました。

「お客さま、お時間でございます」

振り向くと、あの黒服イケメンがにこやかに立っていて、目が合うと少し首を傾げてみせました。

最終話:最後のマッチ

ボクはオープンカフェでコーヒーを飲みながら夏まつりの夜のことを思い出していました。思えばあの夏まつりの夜から、ボクの人生は順調に転換しました。ただ普通にしているだけなのですが、なにもかもがよい方向にいくのです。

なんといっても108あるといわれる煩悩のうちの107までが消え去っているのですから、人を恨んだり、うらやましがったりすることはまったくありません。しようと思ってもできません。

人の嫌がるような仕事もすすんでやるし、それによって何の見返りも求めません。最初は疑いの目で見ていた人たちも、ボクの行動が純粋で裏がないことがわかると周りに集まってきました。正義に燃える若者や未来を憂う年配者も、救世主の登場だと喜びました。だけど人の評判なんてどうでもいいんです。みんなが幸福ならそれでいいんです。

女の子もボクを放っておきません。なんたって女の子の言うことはなんでも聞くし、それが苦になりません。シュークリームが食べたいといえば深夜でも買いに行くし、南の島に行きたいと言えば即ご招待します。もちろん下心なんてありません。魂が純化してますから。

ボクはオープンカフェで外を眺めながら、足を組みかえました。すると道行く二人連れの若い女性がボクの足元を見て、爽やかに微笑みながら話しているのが聞こえました。

「まあ、あの人、靴下をはいてないわ、まるで子供のように無邪気な人ね」
「ほんとだわ、どこか一つだけスキを持っている人ってステキね」

そうです。ボクの魂に残った最後の煩悩は「靴下をはかない」というものでした。

ボクはコーヒーを飲みながらつぶやきました。

「冬になったら、あの最後のマッチを燃やさないと足が冷えるかもね」

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