湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。

10.ひとりごと酒場-夏

第一話:ポテトサラダ大盛り

最近よく知人に「大丈夫か」とか「疲れてるんじゃないか」とか聞かれます。また、「足跡はもう気にならないか」とか「あん肝が好きなのか」とも聞かれます。まあ、ちょっと疲れ気味なのは確かなので、たまにはゆっくり酒でも飲もうかと思い、先日ひさしぶりに「ひとりごと酒場」に行ってきました。

「ひとりごと酒場」は普通の一杯飲み屋なのですが、店のおばちゃんが無愛想で、「いらっしゃい」も言わなければ、注文も取りません。お客さんは適当な席に座って黙っているだけで酒とつまみが出てきて、それがなくなるとまた代わりが出てきます。席はカウンターだけなので一人の客がほとんどで、お客さんはしゃべることと言えばひとりごとくらいなもので、そのうち誰が言うともなく「ひとりごと酒場」と呼ばれるようになったのです。

ボクは入り口からすぐの席に座りました。この店は常連客が多いので座る席には注意しなくてはいけません。外に近い入り口近辺がだいたいどこの店でもフリーの席です。ボクが座ってボンヤリしていると、おばちゃんが生ビールとポテトサラダを持ってきました。

ちょっと自慢になりますが、ボクはこのおばちゃんにはけっこう好かれています。というのも今では考えられないことなのですが、初めてこの店に来た時、おばちゃんにちょっと気をつかって「おねえさんはB型?」と聞いてみました。おばちゃんはぶっきらぼうに「こう見えてもA型なのよ」と答えただけなのですが、「おねえさん」がよかったのか「B型」がよかったのか、その後ずっとボクのおつまみは他の人に比べて大盛りです。

ボクは大盛りのポテトサラダを食べながら、生ビールをゆっくり飲みました。外は通行人が増えたようでザワメキを増してきたのですが、お客さんはいっこうに入って来ませんでした。壁に掛かっている時計を見るともう7時を回っていました。

ボクは「7時過ぎたのに誰も来ないなあ」と本日初のひとりごとを言いました。

まあ、7時と言っても、朝の7時ですから客が来なくても不思議はないのですが…。

第二話:伝説のひとりごと師登場

一時間ほど過ぎても客はボク一人でした。ボクは2杯目の生ビールを飲み、3皿目の大盛りポテトサラダを食べながらボンヤリとしていました。

やっとお客さんが入ってきたのは8時を少し過ぎた頃で、通勤途中のサラリーマンのような若者と、続いてもう一人、高級そうなスーツを着こなした中年紳士が入ってきました。二人とも見た顔ではなかったのですが、この店には入り慣れているらしく、席に座るとじっと黙っていました。おばちゃんはその二人にも生ビールとポテトサラダを出しました。

ボクは時計を見てみました。そろそろ「あの男」がやって来る時刻です。きっとこの二人のお客さんも、あの男の「ひとりごと」を聞きに来たに違いありません。なんといってもその男は、伝説のひとりごと師、人生の救援投手、「8時半の男」なのですから。

時計の針がちょうど8時半を指した頃、一人の初老の男が入ってきました。その男は入り口の引き戸を開けると神経質そうに足で敷居のところを何度となくなぞりました。その姿は、まるでピンチに登板してきた救援投手がマウンドのプレートを足でなぞっている仕種にそっくりでした。

そうです。この男こそが伝説のひとりごと師、人生の救援投手、8時半の男、「解決のトメさん」なのです。彼のひとりごとは奥深く、居合わせたお客さんの悩みを次々と解決していくということで、お客さんのなかで話題になり、いつしか人生の救援投手「8時半の男」と呼ばれるようになったのです。

トメさんは常連客御用達の奥の席に座りました。トメさんにもやはり生ビールとポテトサラダが出てきて、トメさんはゆっくり生ビールを飲み、ポテトサラダを食べ始めました。

しばらく緊張した空気が流れていたのですが、突然トメさんが叫びました。

「オオアリクイと野性のコアリクイ」

お客さんたちは色めきたちました。
このひとりごとは誰の悩みを解決するのでしょうか?!

第三話:オオアリクイと野性のコアリクイ

普通「ひとりごと」と言うと、グチや願望が思わず口に出てしまいがちですが、伝説のひとりごと師ともなると一味違います。「解決のトメさん」のひとりごとの場合、奇抜な言葉の羅列のように聞こえますが、必ずどこかに悩みを解決する深い意味が隠されているのです。

ボクはトメさんが言った「オオアリクイと野性のコアリクイ」というひとりごとを分析してみました。

まず時間帯と客層を考えると、「アリクイ」は企業を指していると考えて間違いないでしょう。そして「オオアリクイ」が大企業で、「コアリクイ」が中小企業です。「野性」はベンチャーとか先進的なものを意味するのでしょう。つまり大企業だろうとベンチャー企業だろうと、結局は同じアリを食べているアリクイに変わりはないということです。

また、アリクイはアリがいなくては生きていけませんから、企業にとって社員は大切な大切なアリであるということです。しかし、アリはアリクイの組織を形成している細胞ではなく、単なるエサです。だから企業の社員にもそんな運命しかないということです。どんなに安定した大企業だろうと、自由な社風の新進企業だろうと、企業にとって社員はアリなのです。食べても食べても次から次へと出てくる従順で消化のいいエサに過ぎないのです。そうトメさんは言いたかったのでしょう。

その時バタンという大きな音がしました。見てみるとサラリーマン風の若者がイスを倒して立ち上がっていました。そして「オレはアリなんかじゃないぞ」と一声叫ぶと、勢いよく店を飛び出していきました。

トメさんも中年紳士もまったく動揺する素振りを見せませんでした。ボクも何事もなかったかのように生ビールをゆっくり飲み続けました。これであの若者の悩みが解決したかどうかは定かではありませんが、まあ、世の中そんなものでしょう。

それからどのくらい時間がたったでしょうか。今度はトメさんは押し殺すような声でささやきました。

「アリの足跡…」

ボクは動揺しました。
足跡…、もしかしてこれはボクの悩みを解決する「ひとりごと」なのでしょうか?!

第四話:アリの足跡

足跡と聞いてボクには思い当たるフシがありました。もうお客さんはボクとあの中年紳士しかいないし、きっとボクの悩みを解決するためのひとりごとに違いありません。だけど、どうもピンときません。この「ひとりごと」は何を暗示しているのでしょうか。ボクは悩み続けました。

そこに中年紳士が「しょせんアリの足跡だな」と静かにつぶやきました。追い詰められていたボクは少し安心しました。もしかしたらこれはこの紳士への言葉だったのかもしれません。紳士はおもむろに立ち上がるとひとりごとを続けました。

「私の人生なんてしょせんアリの足跡だったのだ。振り返ってみたところで思い出ひとつ残っていない。私は何ひとつ自分の意思で決められなかった。組織のため、家族のため、いつも自分に言い聞かせながら歩いてきたんだ。その結果がこれだ。私には足跡がないのだ。生きた証がないのだ」

ずいぶん気合の入ったひとりごとだと思いながら、ボクはじっと聞いていました。この紳士のひとりごとが終わったら次はボクの番ですから、気のきいたひとりごとを用意しておかなくてはなりません。そのためには、ちゃんと流れを把握しておく必要があります。紳士のひとりごとはさらに続きました。

「もう迷うことはない。私はこれから一人の人間として歩いていくのだ。正々堂々と胸を張り、しっかりと大地を踏みしめて足跡を残しながら歩くのだ。もう私は誰の目も気にしない。自分の気持ちを偽ることもしない。それが生きるということなのだ」

ボクはふむふむと思いながら聞いていました。この紳士は組織のために裏工作とか政略結婚とか散々なことをしながらここまで出世してきたのでしょう。だけどここで気づいたのだから、けっして組織に美味しく食べられたアリではないとボクは思いました。まあ、心を入れ替えて生まれ変わってほしいものです。さらに紳士は続けました。

「さあ新しい旅立ちの時だ、いっしょに行こうじゃないか」

い、いっしょにって、誰と?!

最終話:はじまりの夏

思わぬ展開にボクはあわてました。この中年紳士のひとりごとも気合が入っていていいのですが、最後の言葉がよく理解できません。次はボクの番ですから、彼の「ひとりごと」を受けとめなくては話の流れが止まります。

だけどこの流れに乗った気のきいた「ひとりごと」がなかなか思い浮かびませんでした。だからといって、せっかくのいい流れを止めるわけにもいかないので、ええい、とりあえず何か言ってしまえ、と投げやりになったところに、思わぬ「ひとりごと師」が現れたのです。

「あんた…」

いつ厨房から出てきたのか、おばちゃんが中年紳士のところまでやってきていて、絞り出すような声で語りかけました。もはや「ひとりごと」ではありません。

おばちゃんは切なそうな目で紳士を見上げながら、せわしなく腰に巻いたエプロンをはずし、それを丸めて片手に持ち、空いているほうの手で紳士の手をしっかりつかみました。もう二人は振り向きませんでした。風のように出て行きました。

ボクは呆然と二人の後ろ姿を見送りました。いったいあの二人はどんな関係なのでしょうか。これからどこに行こうというのでしょうか。

ふと今まで紳士が座っていた席を見ると、そこには飲みかけの生ビールと見たこともないような大盛りのポテトサラダが残されていました。おばちゃんが精一杯の気持ちを込めて盛ったのでしょう、ポテトサラダはアイスクリームのようにそびえ立っていました。

ボクはそれを眺めながら、この店最後になるかもしれない「ひとりごと」を言いました。

「おばちゃんの夏が始まるんだ…」

二人が飛び出していった引き戸は開けっ放しで、夏の強い日差しが差し込んでいました。ボクはその日差しを背中に浴びながら子供の頃のことを思い出していました。夏休みの朝、ラジオ体操の帰り道、これからどんな一日が始まるのかドキドキして浴びた朝の日差し、可能性いっぱいだったあの夏の日。そう、あの日も今朝のように日差しが強くて、鼻をくすぐるような夏の香りがしていました。

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