湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。

06.雨のラプソディ

第一話:ピアノマン?

先日の日曜日、朝からあいにくの雨模様だったのですが、気分転換のため近所の公園に出かけてみました。雨の日の公園は、晴れている時とはまったく違い、いつもの休日なら家族連れでにぎわう広場も、誰一人いません。ただ雨が降っているというだけで、あとは何も普段と変わらないのに誰もいないということは、この公園には雨の日の遊びがないということでしょう。子供たちはきっと公園のことなんか忘れて部屋の中で雨の日の遊びをしているに違いありません。

ボクは誰もいない公園を「雨の歌」を口ずさみながら歩きました。この「雨の歌」は、どうしたことか毎年、梅雨の時期になるとボクの頭の中を占領して、何かと言うとこの歌を口ずさんでしまいます。カサを打つ雨の音が打ち消してくれるので、ボクは人目もはばからず声を出して歌い、そして思いました。「今ならあの秘密の練習をやれるな」

その練習とは、今さらではありますが、ワープロのキーボードを正確に打つ練習なのです。いつもはワープロを打つ時、両方の人指し指だけでキーボードを打っていて、周りから奇怪な目でみられているのですが、この誰もいない雨の公園なら、そんな初歩的な練習をするには最適です。

さっそくボクは大きな木の前で立ち止まり、その木に向かって「雨の歌」の歌詞をブラインドタッチで打ってみました。正しい指の位置を意識しながら正確に、そして大胆に。いつしかボクは熱中し、まるで熟練したピアニストのように、全身でリズムをとりながら、時には大げさに右手を高々と挙げたりして、仮想のキーボードに打ち込んでいきました。いつしか肩に乗せていたカサは落ち、ボクはそれもかまわず全身に小雨を浴びながら、一心不乱に打ち続けたのでした。

ふと視線を感じて後を振り向くと、そこには小さな女の子が立っていて、ボクを不思議そうにみつめていました。そしてボクと目が合うと小さくつぶやいたのです。

「ピアノマン?」

第二話:ノー、ワープロマン

確かにズブ濡れで、寂しげな目に憂いをたたえながら一心不乱に両手を振り下ろしている姿は「ピアノマン」に見えるかもしれません。しかし残念ながらボクは「ピアノマン」ではなく「ワープロマン」なのです。それも職場では人指し指だけでキーボードをなんとか打っている、いわば「ワープロマン」見習いなのです。

悲劇の主人公でも、隠れた芸術家でもない「ワープロマン」見習いのボクには、女の子に夢も感動も与えることができません。それに最近の風潮として、幼い女の子が知らない人と話をするのはよくないし、この女の子のためにもボクは彼女を無視することにしました。

しばらく無視してワープロの練習をしていたのですが、どうしても斜め後にいる女の子の気配が気になり、雨の歌を打ち込むのを中断して「ああ、どうすればいいんだ」と打ち込んでみました。

すると女の子は、それに答えるように「そんなに悩まないでよ」と大人びた口調で言うので、思わず彼女のほうを向いて、あわててまた向き直して、素知らぬ顔をしてまたワープロの練習に戻りました。

それにしても不思議です。彼女はボクの思っていることに答えているとしか思えません。しかしボクは仮想のキーボードに打ち込んでいるだけで、声に出しているわけではありません。いったいこの子は何者なのでしょう。ボクは「この子はどこから来たのだろう」と打ち込んでみました。

すると女の子はすかさず「あの団地だよ」と指さすので、ボクはまたその言葉につられて女の子が指さす方向を見てしまい、あわてて彼女の方を向き直し、「ど、どうして話が通じるのだ!」と叫びそうになったのですが、それはグッとこらえて、仮想キーボードに向かい、「ど、どうして話が通じるのだ!」と打ち込みました。

どうやら、この女の子にはボクの心の中が見えているようです。

第三話:仮想ワープロの秘密

だけどボクは心の中では、この女の子を無視しようと決心しているわけですから、それが通じているとは思えません。ということは、ボクが打っている仮想ワープロに秘密があるのでしょうか。それとも雨のせいなのか…、この大きな木のせいなのか…。

相変わらす悩み続けているボクに女の子が話しかけてきました。話かけるといっても会話じみたものではなく、単に「いちご!」と単語を言っただけでした。

しかし、この「いちご!」という単語で、彼女が言いたいことはすぐに分かりました。このくらいの子供がこういう風に言う場合はたいていシリトリです。彼女はボクにシリトリをしようと言っているのです。ボクは試しにキーボードに「ゴリラ」と打ち込んでみました。

すると彼女は「らくだ!」と答えました。やはり彼女との会話の秘密はこの仮想ワープロにあったようです。しかも予想通りに彼女はシリトリをしたがっていました。ボクは自分の推理が2つとも当たったことをちょっと誇らしげに思ったのですが、すぐにやはりこうして彼女と関わっていてはいけないと思い直しました。しかし次の単語を答えないわけにもいきません。そこで「ダチョウ」と打ち込んでみました。この展開は定番ですから次の言葉もだいたい予想がつきます。

「うさぎ!」と彼女は予想通りに答えました。ボクはその答えを受けて「ギンナン」と打ち込みました。最後に「ン」が付いているのでシリトリはボクの負けです。そう、もうこの遊びは終わらせなければならないのです。本当はいつまでもこの女の子とシリトリをやっていたいのですが、それは彼女のためになりません。ボクは断腸の思いでこの遊びに終止符を打ったのです。

ところが彼女はお構いなしに、また「いちご!」と答え、シリトリは振り出しに戻ったのでした。

第四話:達人への道

女の子との終わりのないシリトリを繰り返しているうちに、ボクのワープロの腕はみるみる上達していき、単語を思い浮かべるだけで自然に手が動き、かなりのスピードでキーボードを打てるようになっていきました。

女の子の言う単語はだいたい予想ができて、それが何度も繰り返し出てくるので慣れてしまい、ボクはまるで百人一首の名人のようにサッとキーボードを打つと、次の言葉を待ちました。そのうちに女の子が考える時間が長くなり、ボクは彼女が考えている間に文章を打つ余裕も出てきました。

彼女は小さな赤いカサを肩でゆっくり回しながら考え込んでいて、そのカサの赤い色が雨に濡れた新緑の中でひときわ鮮やかで、ボクは素直に「そのカサ、きれいだね」と打ってみました。

すると女の子は考えるのを中断して「うん、ママとおそろいだよ」と答えました。

その会話がボクの中でやっと抑えていた何かを呼び起こしたようです。ボクは思いつくままに「その赤いクツもママとおそろい?」とか「明日は晴れるといいね!」とか、どうでもいいような会話を次々と打ち込み、しだいに歯止めがきかないくらいのスピードとなり、いつしか彼女の返事を待つことももどかしく、止めどもなく打ち続けていったのでした。それでも指の運びは常に正確で、その正確さがまたスピ-ドを生み、いよいよ止まらなくなっていってしまったのです。

どのくらい打ち続けていたでしょうか。すでに自由自在に打てるようになっていたボクは、自分がワープロの達人への道を歩みだしていることを確信しました。いや、もしかしたらすでに達人の域に達しているのかもしれない、と思いつつ腕を振り上げた瞬間、今まで小降りだった雨が一変してどしゃぶりとなり、ボクを激しく叩きました。

突然の豪雨を全身に受け、ボクは呆然と立ち尽くしました。ふと我に返ってあたりを見渡してみると、すでに女の子の姿はありません。

「ボクはいったい何をしていたのだ」

最終話:哀しみのピアニスト

バラバラと葉を打つ強い雨音は、雨の精の嘆きのように聞こえました。我に帰ったボクは初心に戻り「雨の歌」の歌詞を打ってみました。しかしすでに熟練してしまったボクの指は、どうしても正確で合理的な動きしかできず、あの人指し指で打っていた頃の踊り出したくなるような「雨の歌」は打てなくなっていたのです。

ついにボクは「パーフェクト・ワープロマン」になってしまいました。もう両方の人指し指でキーボードを打つことはありません。これからは正確な指運びで整然とキーボードを打ち、合理的で無駄のない文書を作ることでしょう。おそらく職場に行けば、ボクの見事な打ち方を見て口々にみんなで褒めたたえるに違いありません。ある人はもうプロだねとか言うかもしれません。

しかしあまりにも代償が大きすぎました。ボクは正確で無駄のない打ち方を習得する代わりに、ハプニングに満ちた創造性を失ったのです。これからは一人の常識人として社会生活に順応しながら堅実に生きていくことでしょう。もう「明日はなんとなく休んじゃえ」的な心はどこを探してもないのです。

無駄のない大人の心しか持たないボクに、あの女の子が興味を持つことはもうないでしょう。二度とあの女の子には会えないのです。ボクは失ったものの大きさを知り、改めて嘆き哀しみました。そしてまたあの大きな木に向き合ったのです。

ボクは大きな木の前でしばらく立ち尽くしました。哀しみに満ちたボクに見えるのは、慣れ親しんだ仮想ワープロではなく仮想ピアノでした。ボクはおもむろに、深い哀しみを込めて両腕を振り下ろしました。指先は自然に生き生きと動き、鍵盤の上をなめらかに走りました。その時、背後から低くて太い声がしました。

「パーフェクト・ワープロマン?」

ボクは振り向きませんでした。

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