湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。

02整骨院物語

第一話:初診

昨日は一日中ビールを飲みながらパソコンをいじっていたのですが、夕方になってさすがに疲れてきて、ベランダに出てぼんやりと外を眺めていたら、商店街に新しい整骨院がオープンしているのを発見しました。

日曜日だというのに開いているようなので、さっそく行ってみることにしました。
と言っても整骨院はマーッサージ店と違い、受診するにはどこがどうやって痛くなったかという理由が必要です。ただ肩がこっているでは診てもらえません。

ボクはしばらくビールを飲みながら考え、今朝起きたら首が動かなくなっていたことにしようと思いました。原因としては土曜日にやった急な運動ということでつじつまを合わせました。といっても経緯としてはほぼ事実で、首が痛いというのもいつものことです。

ボクはTシャツとジャージを着ていそいそと出かけました。

整骨院ではそれほどの問診も受けずに、背中をグリグリやるローラーやら肩や背中に電気を通してただ寝てるだけとか魅惑的な治療の連続で、だんだんビールがまわってきて、どんどんハイでハッピーな気持ちになっていったのでした。

帰り際、看護師のおねえさんが「明日もまた来てください」と言うので、「おう、おう、明日も明後日も来るぜい!待っててちょ!」と威勢よく啖呵を切りたかったのですが、そこは治療中の身、ちょっと沈んだ感じで「はい」と小さくつぶやいて整骨院を出ました。

第二話:背筋を伸ばして

日曜日に初めて行った整骨院で、看護師のおねえさんに明日も来るように言われた時は何度でも行く気だったのですが、一夜明けると冷静になるもので、行くのがおっくうになりました。

しかし治療中の身であるわけですから、看護師さんに明日も来るように言われれば従うしかありません。幸いその整骨院は夜の9時までやっていて定休日もないという、まさに骨のある営業方針なので、それに答えるためにも行かなくてはなりません。

ボクはできる限りの情熱を沸き立たせて、なんとか9時直前に整骨院に到着したのでした。

日曜日と違って閉院直前だというのに込んでいて、ボクは待合室で雑誌を読んでいました。そこに看護師のおねえさんがやってきて、足をグリグリやりながら雑誌を読むと気持ちいいわよ、とか言うのでその通りにしていたのですが、残念ながらビールが入っていないので日曜日のような心の底から沸いてくるような楽しさは味わえません。初診でやった「背中グリグリ」も「電気ビリビリ」もビールがないと刺激が乏しく、ボクは心の中で「今日で終わりだな…」と別れを決意していました。

ところが、治療が終わってそそくさと帰ろうするボクに、また背後から看護師のおねえさんが「明日も来てくださいね」と声をかけてきました。ボクは心の中を見透かされたようにうろたえ、まるで今話題のレッサーパンダのようにピンと背筋を伸ばし、顔だけでちょっと振り向きながら、きっとレッサーパンダが返事をしたらこんな声になるだろうというような高く短い声で「はい」と答えました。

第三話:どんどん進む秒針

昨日の夕方、また整骨院に行かなくてはならないと思いながらも淡々と時間が過ぎ、午後9時の閉院の時刻を迎えてしまい、とうとう整骨院には行けませんでした。ボクは職場の壁にかかった時計を眺めながらどんどん進んでいく秒針を目で追い、もし急げば間に合ったかもしれないと少し後悔しました。

どんな些細な選択肢でも、違う方を選べばまったく違う展開になります。もしあの時急いで整骨院に行っていれば、現在ここにいる自分は存在しません。まったく別の人生になる可能性だってあります。だけどいつもボクは動かないことを選び、それほど後悔することもなく過ごしてきたような気がします。そして今日もまた何の変哲もない時間が、いつものように過ぎてしまったのです。

帰宅途中、整骨院の前を通りました。もう9時をずいぶん過ぎていたのでシャッターが降りていました。ボクはそれを横目に見ながら「ああ、もうここに来ることはないんだ、おさらばだぜ、ベイビィ」とつぶやき、映画のラストシーンに登場するすべてを悟ったナイスガイのように振り向きもせずにその場をあとにしました。

ボクはなにかに決着がついたような、すこし晴々とした気分で昨夜は早々に床についたのでした。

ところが今朝、目が覚めて起き上がろうとしたのですが体が思うように動きません。どうしたことかと寝返りを打とうとしても首が痛くてまわりません。どうやら土曜日に急にやった運動のせいのようです。日曜、月曜と少し痛かったくらいでもう大丈夫だと思っていたのですが、とうとう中三日あけて筋肉痛がやってくる年齢になってしまっていたようです。

また整骨院に行かなくてはならなくなりました。

第四話:この芸を極めたい

三日遅れでやってきた筋肉痛のため、昨日は一日中首を押さえたり肩をさすったりしていました。そんなことをしていると会う人ごとに「おいおい、四十肩かい?」なんてことを聞かれます。そこですかさず「いや~、筋肉痛が三日遅れで来てね~、四十肩よりひどいよ」なんてことを言って軽くご機嫌をうかがうわけですが、本来なら「ええ~! 三日遅れで来たの、あんこ椿じゃないんだから~」くらいのツッコミはほしいところです。

そうすれば「それは“三日遅れの~♪ 便りを乗せて~♪”でしょ!」と都はるみの振りまねをしながら返す準備はできていたのですが、なかなかそんな気のきいたツッコミを入れる人もなく、都はるみの振りまねは現在お蔵入り寸前です。

幸いなことに今首を痛めていて回らないので、イテテッとか言いながら首を傾け上目遣いに斜め上方を見ると、まるで都はるみその人になったかのような満足感があります。

ボクはもうすこしこの状態のままで、この芸を極めたいと思いました。

それには整骨院に行くわけにはいきません。きっとあの看護師のおねえさんはボクのこんな切実な望みを聞いてくれるわけもありません。一度行けばまた来てねと言うだろうし、首が痛くて回らないと言えば直すことが最善だと思うに違いありません。

ボクはとりあえず整骨院に行くのを止めました。

最終話:またここに来てしまった

整骨院に行くのを止めてまで打ち込んでいた都はるみの振りまねですが、練習をすればするほど理想の形から遠ざかっていきました。冷静になって考えてみれはそれはそうです。これはあくまでもハイテンションの中でこそ生きる一発芸であって、繰り返し練習して深めるような芸ではないのです。

ボクは挫折しました。練習が無意味だと思うと、いつ発揮できるかもしれないこの一発芸を磨いていく情熱が失せてしまったのです。ボクは絶望し、あてもなく夜の街をさまよいました。

どのくらい歩いたでしょう。ふと気がつくと整骨院の前まで来ていました。そう、すべてはここから始まったのです。

ボクは痛めている首をかしげ、ポケットに手を入れながら、哀愁を込め、暖かな明かりの灯る整骨院の玄関に向かってそっとささやきかけました。

「初めての出会いは酒の勢いもあったけどとっても楽しかったよ。だけどそんな幸福もボクの気まぐれで終わってしまったんだね。信じてもらえないかもしれないけど、ボクはその間ひとつのことに打ち込んでいたんだ。どうしても極めたいものがあってね。だけどそれもあえなく挫折してしまった。そしてまたここに来てしまったんだ」

「ヒロシです…」と付け加えて照れ隠しをしようとした瞬間、シャーという乾いた音がして整骨院のカーテンが閉まり、すっと電気が消え、あたりは真っ暗になってしまいました。

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